大日本近世史料「諸問屋再興調九」

本巻は旧幕引継書類のうち「諸問屋再興調」拾伍・拾陸の二冊を収める。両者とも髪結職再興関係の文書を収録したものであり、前者には八二通、後者には五六通が写されている。髪結職仲間の封建経済に対する関係が頗る稀薄であることはいうまでもないにしても、封建社会に密着して特異な存在であったことは、その経営形態が他の職業に比して、近代的な観念ではやや理解できないという点にも見受けられる。それを髪結職公用筋旧記と嘉永四年四月諸問屋再興掛上申書によって説明しておこう。
 近世の髪結職の経営の仕方には三種類があった。一つは出床とよばれるもので、町境や往還に地を占めるか、もしくは橋台・河岸地の見守番として床を経営するものであり、他の一つは内床といわれるもので、借家によって経営するものであった。この出床と内床にあっては下職が株主から床を預って揚銭を提供する場合と、株主自身が経営する場合とがあるが、第三の種類の丁場となると、その営業の形態は、固定床をもたない外廻り髪結人の渡世を指していた。いわゆる丁場とは、幾人かの床が存在する一定地域をいうものであり、この地域内で渡世する幾人かの外廻り営業権の総体が一株と価値づけられていた。渡世人も大都分が下職の者にすぎなく、彼らはやはり丁場内の床主へ揚銭を出さなければならなかった。
 髪結職が特異な性格をもっていた他の一面は封建支配者との関係である。髪結職が初めて町奉行から焼印の鑑札を下付されたのは寛永十七年であり、町奉行は髪結仲間の営業権を保障する代償として、町々の御入用橋の見守番を左右六町の髪結に命じた。その後この営業権の保障に基礎をおく封建的義務は、享保年代には囚人の月代剃や、出火時における南北両奉行所駈付の義務をも包含するようになり、さらに安永六年には町年寄役所駈付、文化十年には牢屋敷駈付などの義務負担へと発展した。しかしもちろん、これらの株に付属した義務は、天保十二年の改革を迎えるにおよんで停止さるべき性格のものである。
 改革以後、髪結株が廃止されると、この商売にも大きな変化が現われた。まず床主に対する揚銭の慣習がなくなり、代わって家主が番銭を徴収するようになった。とりわけ下職の者で新しく内床を経営する者が数多く発生し、これも従来の床主にではなく、地面の家主に名目をつけて出銭するようになった。江戸市中における本町上組外四二組にあっては、組合仲間も組合区域も一切解消するに至った。一方、橋台や町家の変更によって撤去となった床もあり、また寺院門前の床で移転再建となったうえ寺持に変更されたものなどもあった。こうして天保十二年改革前の床数は出床六六〇余箇所、内床四六〇余箇所であったが、嘉永四年五月には出床六三九箇所、内床四四二箇所、新観内床約七〇〇軒となっていた。
 さて髪結仲間再興にあたっては、改革以後に停廃した諸義務や員数規制を再編成して強化することが必要であった。この「諸問屋再興調九」には、そうした再編成上の諸問題を含む文書が数多く収められているが、なかには興味ある史料も少くない。近世中期以来の髪結株式売渡証文や、髪結持場譲金高の変遷を述べた諸色掛名主上申書をはじめ、再興以後における髪結銭・揚銭高を示した髪結床持主惣代上申書など、また髪結場所絵図面や、新床の者たちが揚銭の拒否と新株結成を目的として水茶屋で会合をおこない、連印をなすの動きがあると報告した隠密廻上申書などがそれである。結局、髪結仲間は嘉永四年三月現在を以て新床・古床の数を限定し、かつ組合を立てさせ、新床は元床主に揚銭を出すことにするという方針もきまり、同年九月には再興名前帳が町奉行所に提出された。
(目次一二頁、本文三一七頁)
担当者 伊東多三郎・阿部善雄・進士慶幹

『東京大学史料編纂所報』第3号 p.69*-70