大日本史料第十編之二十一

本冊には、正親町天皇天正二年(一五七四)二月二日より、同年四月六日までの史料を収めている。
 まず、この時期の中央の政治情勢である。前年、織田信長は、将軍足利義昭を京都から逐って幕府を滅亡させ、やがて、義昭に関連した勢力をほぼ一掃して、新たな年を迎えたのであったが、反信長勢力として、武田勝頼が行動を開始した。勝頼は、信長の属城美濃明智城を陥れ、信長は、自ら出陣したが、深入りはしていない。信長は、上杉謙信と勝頼を夾撃する計画を持っており(二月五日第三条)、実は、謙信も勝頼攻撃のために、上野沼田に着陣していたからである(二月五日第四条)。
 一方、越前の情勢も不安定で、信長から同国守護代に任ぜられた前波長俊を殺した富田長繁が、一向一揆によって殺されるが、信長は、静観していたようである(二月二十日条)。しかし、大和については、同国多聞山城に宿老の柴田勝家を入れ、奈良の諸政を管掌させている(三月九日条)。そして、三月十七日、岐阜から上洛した信長は、翌日、従三位となり、参議に任ぜられている。信長が多聞山城に赴き、東大寺の蘭奢待を拝領したのは、十日後の三月二十八日のことであった(同日第三条)。この著名な史実の史料を、本冊に収録された信長の茶会(二月三日条・三月二十四日条・四月三日条)の記事と併読するのも、興味深いものがあろう。
 なお、反信長勢力の精神的支柱としての義昭も、その活動を止めてはいない(二月六日条・三月六日条・三月二十日条)。本願寺光佐らが信長に叛旗を翻したのも、これらの義昭の行動に連動していたのである(四月二日条)。
 地方の情勢については、龍造寺隆信が後藤貴明らを、肥前横辺田の戦で破ったこと(二月是月条)、信長方となっている浦上宗景や山中幸盛ら中国地方の諸氏の動きなどが、注目されよう(二月七日条・三月二十六日条)。
 さて、本冊に収録した死歿・伝記史料には、前南禅寺住持の靖叔徳林(二月十六日条)・富田長繁(二月二十日条)・武田信虎(三月五日条)がある。信虎は信玄の父であり、信玄によってその領国を逐われたのであったが、八十一歳の長寿を全うした。
 終りに、本冊の図版二葉は、原色版で収録できた。原本所蔵者の大泉寺(武田信虎画像)・長禅寺(武田信虎夫人画像)の御好意に、謝意を表する次第である。
なお、本冊の原稿作成には、前所員山室恭子も関与したことを付記する。
(目次一〇頁、本文三一八頁、欧文目次一頁、欧文本文七頁、挿入図版二葉)
担当者 染谷光廣・中島圭一 欧文担当者 五野井隆史

『東京大学史料編纂所報』第29号 p.16*-17