大日本近世史料 市中取締類集二十一

本冊には、旧幕府引継書類の一部である市中取締類集のうち、前冊に引き続き書物錦絵之部八冊のなかの、第七冊・第八冊を収めた。本冊で、本書十八冊から四冊に亘った書物錦絵之部が完結となる。
 本冊には、第二三六件「嘉永五年壬子日録出板売弘願調」から第三一二件「日本図并庚戌晴雨考彫刻売弘願調」までが収められているが、このうち第二三六件から第二七四件までは、嘉永五年から同六年までの追加市中取締類集である。そして、第二七五件から第三一二件までは「嘉永二酉年中 書物錦絵」と題して、嘉永二年分が別冊になっているもので、年代的には本書十九冊で欠如している同年分として、追加部分の冒頭にはいるべき内容であるが、別にまとめられている。
 本書のなかで、第二六七・二七〇・二七三件は、嘉永六年の絵草紙取締りをめぐるものであるが、第二六七件には、絵草紙掛名主の勤務および浮世絵師歌川國芳の行状に関する隠密廻同心の風聞書がみられる。風聞書のうち絵草紙掛名主に関するものには、規則違反者は地本絵草紙問屋仮組に多く、彼らの多くは下町に住んでいることから、掛名主のうち四名を罷免し、神田・浅草などで新規に七名を任命することが提案されている。一方、國芳の行状風聞書には、同人について、職人気質のうえ野卑にて闊達な性格、欲心に疎く、金銭・衣類などには無頓着で、借財もあるといったことが記され、ある書画会で三十畳程の紙中に人物の大図を描いた際、着用の単物を脱ぎ、これに墨を浸して隈取りし、「きおひもの」などと唱えられている、というエピソードを載せている。
 町奉行から命令を受けた町年寄は、掛名主一同が交代するのは不都合であるから、年末に改めて人選し任期も以後一年限りとする、板元に対して町年寄から改めて取締方法を申渡す、といった点を上申した(第二七〇件)。町年寄の申渡しを受けた絵草紙掛名主からは、問屋仮組への申渡し、板木職人の取締り、隠摺・隠売に対する処分など、具体的な取締方法の伺いが出されている(第二七三件)。伺書のなかで、板木職人には町人身分の者のみならず武家の内職も多いこと、板行摺職人や中次商人が隠摺・隠売をしていること、往還で売り歩いているのはその日稼ぎの者であるから厳罰は不憫であること、などが述べられている。
 錦絵の取締りに関しては、「嘉永二酉年中書物錦絵」のなかに、無改め錦絵の出版・隠先取締一件がみられる(第二八六件)。そこでは、無改め錦絵の出版は、絵草紙取次商売人や板摺といった身軽の者の所業であるとされ、特に三河屋鉄五郎は度々摘発を受け、今後同人の差し出す絵類は一切改めないことに、絵草紙掛名主一同が申し合わせている。また、対策として、無改めの品は従来通り板元から板木・摺溜分を没収するとともに、販売した絵草紙屋には取調中釣し売りを停止してはどうかとの提案が、絵草紙掛名主から出されている。
こうした絵草紙・錦絵をめぐる動向から、天保の改革以後取締りが緩み、絵柄が派手になり、異様・怪奇の図が流行り、また隠摺・隠売が横行するといった状況に対し、取締りの再強化が図られたことが知られる。
 この他では、医書の出版・売弘をめぐり、今後は御医師から町医師まですべて同様の取扱いにしたいとの医学館からの通達に対し、町医師まで対象とするのは町触に反するとの町年寄の意見を受けて、町奉行が医学館に手続き変更の理由を掛け合おうとした一件(第二六〇件)や、十三代将軍家定の将軍宣下の際の「御宣下御大礼御用掛御役人附」の出版・売弘をめぐる一件(第二六九件)などがある。また、「嘉永二酉年中 書物錦絵」のなかでは、同年に行われた上覧相撲勝負附の無断販売をめぐる一件には、没収された勝負附の原本が綴じ込まれている(第二八一件)。第二九一件には、伊勢両宮遷幸錦絵の売買停止をめぐって、町奉行と山田奉行との間で遣り取りされた書状等が収められているが、この一件は江戸で両宮遷幸錦絵が売り出されているのを知った両宮長官らが、山田奉行に売買停止を求めたのが発端である。山田奉行の要請を受けた町奉行は、町年寄にも調査させ、遷宮図売買の先例もあり今回も支障はないとの立場であったが、両宮長官らは、錦絵のような遊戯の品に両宮を描くのは「神慮勿体なく、恐れ入る」として売買差止を主張したのであった。この時期の伊勢神宮に対する意識を窺える一件であるが、結局、売買に支障なしとの老中の指示で決着した。また、「日本国郡輿地全図」の出版願いに対し、天文方が経緯度などに誤りが多いとして不許可を主張し、町奉行は従来許可の日本図と同様のものを不許可としては奉行所の体裁に拘るとして対立し、経緯度線を削除して許可することになった一件(第二九五件)などもみられる。
(例言一頁、目次二〇頁、本文三二九頁)
担当者 藤田覚・佐藤孝之・箱石大

『東京大学史料編纂所報』第29号 p.19*-20