日本關係海外史料 イエズス会日本書翰集 訳文編之一(下)

本冊は、イエズス会日本書翰集JESUIT LETTERS CONCERNING JAPAN Original Texts Selection III, Volume I, November, 1547 - December 15, 1552
(自天文十六年十一月至天文二十一年十二月)の訳文編之一の下巻にあたり、一五五一年一月六日より一五五二年十二月十五日に至る書翰、訓令及び報告三一点を収める。ポルトガル語文二五点、スペイン語文五点、イタリア語文一点の翻訳本で、巻末に人名索引と事項名索引を付載した。
文書数三一点のうち、訓令二点とゴア学院年報一点を除く二八点はすべて書翰である。リスボン市アジュダ図書館所蔵の古写本「ジェズイータス・ナ・アジア」Jesuitas na Asia(写本番号四九ノ四ノ四九号)からは四点を収録したが、うち一点は報告(ゴア学院年報)で、他の三点は書翰である。一五九八年にポルトガル国エヴォラで刊行された『日本書翰集』CARTAS QUE OS PADRES E IRMÃOS DA COMPANHIA DE JESUS ESCREVERÃO DOS REINOS DE JAPÃO & CHINA AOS DA MESMA COMPANHIA DA INDIA, & EUROPA, DESDO ANNO DE 1549 ATÉ O DE 1580, PRIMEIRO TOMOからは四点を採用した。ゲオルク・シュールハマー及びヨゼフ・ヴィッキ編纂の『聖フランシスコ・ザビエル書翰集』EPISTOLAE S. FRANSISCI XAVERIIからは書翰一五点、訓令二点を収めた、またヨゼフ・ヴィッキ編纂の『インド史料集』DOCUMENTA INDICA からは六点を採用し、各々訳載した。
書翰及び報告の執筆者は一〇名で、六六号文書「ゴア学院年報」のみはその執筆者が不明である。フランシスコ・ザビエル執筆の文書は一九点で、うち二点は彼が副管区長に任命したガスパール・バルザエウス宛訓令である。他の一七点はすべて書翰である。ザビエルの書翰はいずれも日本以外の土地から発信されたが、日本を去ってインドヘ向かう途中のシンガポール海峡から発信した一通、ゴアから中国へ渡航する途上のシンガポール海峡発信の三通、中国大陸を目前にした上川島発信の二通、その他インドのコチン発信の五通、ゴア発信の五通、マラッカ発信の一通からなる。特に、日本からインドに帰還した直後にコチンで執筆された四七〜四九号の三書翰には、一五四九年十一月五日付の書翰(上巻に収載の二九号書翰)以降に彼が日本において経験し見聞したことが詳述されており、これらは彼の日本認識や彼の日本における宣教活動の輪郭と宣教活動の在り方、方法論を知るために欠かせない史料である。六三号文書はザビエルの日本人ジョアンに送付した書翰で、アンジロー(又はヤジロー)の元下僕ジョアンに対し、彼が後続のパードレ(司祭・神父)たちをゴアから山口へ案内するよう要請し、またゴアにおける彼への喜捨について配慮した内容からなる。
パードレ・コスメ・デ・トルレス執筆の書翰二通のうち、四一号文書は彼の鹿児島滞在から平戸を経て山口に至ったこと、及び仏教についての所感を述べたものである。同じく四二号文書はザビエルの山口離去以後の山口の情勢について言及した内容からなる。イルマン・ジョアン・フェルナンデス執筆の一五五一年十月二十日付の書翰(四三、四三−A号文書)は、ザビエルの山口離去後にトルレス神父と仏僧及び仏教徒等との論争、所謂、山口の宗論について、その要旨を記したもので、日本におけるキリスト教と仏教との対話が記録された最初の史料として貴重である。なお四三号文書は、一五七〇年にコインブラ版「日本書翰集」が出版された際に、手書本の四三−A号文書を適宜要約し編纂したものである。
ルイス・フロイスの一五五二年十二月一日付書翰(六六−A号文書)はザビエルの日本からの帰還と中国再渡航について言及し、ザビエルの動静について詳しく報じ、またヨーロッパ渡航予定の日本人マテウスがゴアで客死したことをも伝える。
(目次五頁、例言六頁、本文二三九頁、索引三〇頁)
担当者 五野井�史・浅見雅一・大橋明子

『東京大学史料編纂所報』第29号 p.23*-24