大日本史料第十一編之二十

本冊には、天正十三年(一五八五)九月一日から同月是月までの、ちょうど一か月間の史料を収載した。
 前月の閏八月に、羽柴秀吉は越前・近江・大和・伊賀で国替を行ない、部将の配置を決めていったが、九月にも摂津で知行割を行ない、脇坂安治に能勢郡を与え、太田郡や豊島郡を加藤茂勝(嘉明)・加藤清正らに分給した(一日条)。また秀吉は弟の秀長に与えた大和に自ら赴き(三日条)、多武峯の衆徒に下山を命じた。秀吉は多武峯の大織冠社を郡山に移転させる計画をもち、多武峯はこれを阻止しようと朝廷に働きかけ、勅使として菊亭晴季が郡山に赴いて秀吉と対面し訴えたが、秀吉は承知せず、郡山に寺も移すから衆徒は下山せよと命じたのである。そしてその直後に山上の衆徒は多く逃散した(四日条)。秀吉はすぐに大坂に戻る(五日条)が、秀長は郡山にいて大和の経営を進め、興福寺に寺領の指出を提出させ、その領知高を決めている(二十七日条)。また羽柴秀次の入部した近江では、八幡に秀次の居城が築かれ、秀吉も工事を進捗させよとの命令を下している(十日条)。
 また秀吉は美濃大垣城将で美濃の蔵入領の代官も兼ねていた加藤光泰を、家臣を過分に抱えて蔵入部分までこれに与えようとしたことを理由に戒飭し、かわりに近江勢田城将であった一柳末安を大垣に移して、美濃の蔵入領も管理させた。このとき秀吉が末安に出した光泰の罪状を記した書状は、部将に秀吉の意を伝える公開の訓戒状であり、また文中に秀吉の唐国(中国)制圧の意図が示されていることからも注目されているものである(四日条)。
 秀吉の政策を示すもので注目されるのが、牛への役銭賦課の禁止である。秀吉は薄諸光という公家が諸国の牛に役銭を懸けたことを非難し、小早川隆景や吉川元長に対して、このような役銭を賦課するものがいたら、公家でも門跡でもかまわず捕えて届けよと命じている(十八日条)。
 畿内では戦乱が終息していたが、阿波や飛騨では秀吉の部将の入部をめぐって国内の土豪や百姓の反乱が続いていた。阿波では蜂須賀家政の入部に対して、仁宇・大粟の土豪・百姓が反抗し、さらに祖谷山でも反乱がおき、家政はその鎮圧に苦心した(二日条。なお祖谷山の反乱は後年のものだが、年次を特定できないため合叙した)。飛騨でもこの時期に一揆がおき、越前大野の金森長近の兵がこれに対応していることが知られる(十日条)。
 奥羽や九州は戦乱の渦中にあった。奥羽では伊達政宗が大内定綱と戦いを続け、結局定綱は不利をさとって塩松を捨てて二本松に逃走している(二十五日条)。九州では島津氏が肥後を制圧し、大友軍が筑後まで出兵しているという情勢であったが、九月十一日に大友軍の中核にいた戸次道雪が筑後北野の陣中で病死する(十一日条)と、道雪の家臣は筑前立花の立花統虎(宗茂、道雪の養子)のもとに戻り、道雪と共に北野にいた高橋紹運も筑前岩屋に入った。この間に紹運の子の統増が守っていた筑前宝満城は筑紫広門に攻められて陥落し、統増は岩屋に逃れている(十三日条)。大友義統と弟の田原親家も豊後に戻り、大友氏の筑後出兵は結局挫折することになるが、義統はその後も筑後の五条や蒲池に、秀吉の援軍が近くまで到着したと伝えて筑後の守備を命じている。
 一方の島津氏は、肥後に出ていた島津忠平(義弘)が合志城を攻めて合志親重を追い(五日条)、さらに筑後に入って堀切城を陥れた(十二日条)。日向方面でも島津家久が高知尾を制圧して、一気に大友を攻めようと発議した。忠平もこれに同意するが、鹿児島の島津義久は、大友は大敵であるから無理をするなと制止している(十九日条)。
 前述の戸次道雪に関しては、死歿条(十一日条)に伝記史料を収めた。道雪は実名鑑連。豊後鎧嶽の城主であったが、大友宗麟に仕えて対外戦における大将として活躍した。永禄五年には吉岡宗歓・吉弘鑑理・臼杵鑑速とともに毛利軍を豊前で破り、その後先の三名とともに大友家の政務を担い、永禄十年からは鑑理・鑑速とともに筑前に出て、立花・龍造寺などと戦い、元亀二年には立花城の城主となった。さらに天正六年からの筑前・筑後の動乱では、老齢にもかかわらず高橋紹運とともに大友勢の中心にいて活躍した。享年は七十三歳といわれる。
 道雪の死歿条では、道雪および妻子の伝記史料をのせ、道雪の年譜を連絡按文で示し、福厳寺所蔵の画像、株式会社御花所蔵の自筆書状を図版としてのせた。道雪の画像は寛永元年の作で、法体で赤の日の丸の軍扇をもち、巨眼をむいた迫力のあるものであるが、道雪は目が大きいと記した当時の文書もあり、この肖像画は道雪の容貌をよく伝えているものと思われる。また道雪の発給文書で年次不明のものなどを付録の形で収載し、第十一編の範囲の補遺史料を巻末に収録した。
 この条の史料収集にあたっては、柳川市の柳川古文書館に赴いて史料調査を行ない、「伝習館文庫柳河藩政資料」「柳河藩立花家文書」の中に存在する文書の写を利用することができた。ことに柳川藩の家臣の家蔵文書を筆写して収録している「貞俶記」「御小姓組系譜」(ともに「伝習館文庫柳河藩政資料」)からは多くの関係史料がみつかった。また福岡県立図書館にマイクロフィルムの形で収められている文書もいくつか収録できた。同館には「九州軍記」という軍記物があるが、これは慶長十二年の作とされ、内容も簡潔で潤色が少なく、比較的良質の軍記と判断できる。この「九州軍記」も今回の出版ではじめて収録できた。
(目次一二頁、本文四三〇頁、挿入図版二葉)
担当者 酒井信彦・山田邦明・鴨川達夫

『東京大学史料編纂所報』第28号 p.73*-74