大日本史料第三編之二十三

本冊には、鳥羽天皇の元永二年(一一一九)八月から十二月及び同年雑載の史料を収録した。この間の主な事柄として、輔仁親王の薨去(十一月二十八日条、一七二頁以下)と賀茂下社の焼亡(十一月二日第三条、九四頁以下)があげられる。輔仁親王(三宮)は後三条天皇第三皇子で、父後三条の遺詔により皇位継承者と定められた人物であったが、兄白河の堀河への譲位により閑居を余儀なくされ、永久元年(一一一三)におきた親王護持僧仁寛による鳥羽天皇謀殺未遂事件により、謹慎の身となっていた。年来の飲水病に加えて二禁を患い、十一月二十四日出家を果たす(一四八頁以下)。懸命の治療にもかかわらず、親王は自らの死期の切迫をさとり、子の有仁・守子・怡子への家領荘園処分などの後事を、母方のいとこの源師時に託している(一五〇頁以下)。権中納言藤原宗忠をして「才智甚高、能有文章」(一四九頁)と言わしめた親王は、多くの詩文や和歌を遺し(一八八〜二〇三頁)、笛や琵琶の才にも恵まれ、楽道の書にいくつかの逸話が見えている(二〇三〜二一一頁)。嫡子有仁への源姓賜与と彼の従三位右中将任官(八月一四日条、五頁)、同じく中宮藤原璋子の妹との婚儀(十月二十一日第三条、七六頁)および権中納言任官(十一月二十七日第一条、一五二頁)といった動きは、顕仁生誕と輔仁薨去に備えた、皇位より疎外された皇統一流の家継承の準備の表れといえる。次に、社司の火の不始末により発生した賀茂下社の焼亡は、その再建の方策をめぐって、朝廷内での活発な議論を巻き起こした(十一月二十三日第二条、一四四頁以下)。議論の焦点は、主に財源の調達方針にあり、成功や国宛等といった用途調進方法の可否が取り沙汰されている。平安時代後期における国家財政の特質を知ることのできる貴重な事例であるといえよう。
 この他に注目すべき事柄としては、『源氏物語絵巻』成立に関する貴重な史料の一つである、白河法皇と中宮藤原璋子による源師時への「源氏絵」調進依頼の記事(十一月二十七日第二条、一七一頁以下)や、備前守平正盛が、肥前国で殺害行為を起こした平直澄とその一党を追捕した記事(十二月二十七日第二条、二四一頁以下)があげられる。
 本冊において、その事蹟を集録した者は、前記輔仁親王の他、入道前従五位下摂津守源忠政(八月二十二日条、一八頁以下)・従四位下文章博士兼大内記藤原永実(十一月十二日第二条、一一五頁以下)・左近衛将監戸部正清(十二月是月条、二五三頁以下)等である。
(目次一三頁、本文四〇〇頁)
担当者 岡田隆夫・上杉和彦

『東京大学史料編纂所報』第28号 p.72