大日本維新史料 類纂之部 井伊家史料十八

本冊には安政六年三月・四月の史料と、該当時期の長野義言の日記「秘中要記」第四冊を収めた。
 この時期の京都での中心問題は、太閤鷹司政通・左大臣近衛忠煕・右大臣鷹司輔煕・前内大臣三条実万の落飾願いを、いつ朝廷が認めるかであった。大臣は空位にできないから、四方の処罰に先立って左大臣・右大臣・内大臣の後任を内定しておかねばならない。候補に昇っていたのは、左大臣は一条忠香(内大臣より昇任)、右大臣は花山院家厚、内大臣は二条斉敬であった。九条家家士島田龍章は三月十日、長野義言と鯖江藩士芥川舟之に、三大臣転任の御内意仰せ出は三月十二日に決まったと伝え(一四号)、義言はこれを十二日付で井伊直弼と間部詮勝に報知した(一五・一六号)。ところが三月十二日の朝、忠香は九条尚忠に腹痛のため参内延期を願い出たので、転任御内意仰せ出は取り止めとなった。翌十三日、この件を義言と舟之に報じた書状で、龍章は次のように書いている(一八号)。
 「忠香の参内取り止めで昨日の手順はすべて狂った。忠香の病気は忠煕と輔煕とに脅えた仮病と思われる。これは議奏久我建通・中山忠能の画策らしい。尚忠の命により、自分が所司代酒井忠義の許に出向き、同人から忠香と建通とに心得違いをしないよう厳しく申し入れさせた。両人は尚忠に心得違いを詫びたので、大臣ご転任は近いうちに実現するだろう」。
 この結果、三月十七日、大臣ご転任のご内意ご沙汰仰せ渡しがおこなわれた(二五号)。忠義は十八日に詮勝にこれを報じたうえで、尚忠から「三月二十七日に四方の辞官を聞し召され、即日、新大臣の拝賀がおこなわれる。ただし四方の落飾慎みの仰せ出は四月になる」との内密の連絡を受けた旨を記している(二八号)。また義言は二十二日付で宇津木景福に宛てて、「大臣ご転任は二十八日に決まった。同日、御四方に当官御免落飾仰せ付けの予定」との書状を送っている(三二号)。
 左・右・内三大臣の転任は三月二十八日におこなわれたが、四方落飾は幕府の意図したようには進行しない。二十六日、孝明天皇は四方の落飾猶予の意向を尚忠を通じて忠義に伝えた。これに対し忠義は義言・龍章と合議の上、三月二十七日・四月四日・四月十二日の三度にわたり、厳しい抗議の仰せ立て書を尚忠に差し出した(三八号別紙・四一号別紙・四九号別紙)。特に十二日のものには、「四方落飾をいつ許可するか、明後十四日までにご報知を請う。許可に異論を唱える者があれば厳重な措置を取る」と記してある。龍章は十三日、「昨日の忠義の上書奏聞は上首尾で、本日、四方への落飾仰せ渡しは二十二日との宸翰が下った」との書状を義言に送った(五二号)。四方落飾を天皇が許可したのは、この書状の通り四月二十二日である。
 二月二十日に京都を発した詮勝が、江戸に帰着したのは三月十二日であった。詮勝は孝明天皇の安政五年十二月晦日付沙汰書(将来の鎖国復帰を条件に条約調印を黙認する)と安政六年二月六日付沙汰書(安政五年八月八日付の水戸家宛て勅書返上の件)とを持ち帰り、それへの対処が江戸で議論となった。
 まず前者についてである。直弼から意見を求められた景福は、鎖国復帰に天皇が賛成したことを公にするのはよくない、条約調印が止むを得なかった事情を天皇が認めたことだけを、大名・旗本に達すべきだと答えている(三一号)。一方、詮勝は「沙汰書はそのまま大名に示すべきだ。これにつき尚忠の意向を伺うつもりだ」と述べた。景福は四月九日付書状でこの件を龍章に伝え、尚忠より程よいご沙汰があるよう直弼が希望していると結んだ(四四号)。
 後者についても右書状の中で、景福は「水戸家宛て勅書の公儀への返上を水戸家へ達すると混乱が起こるから、京都へ直に返上させるべきだとの評議があった。この件も詮勝が尚忠へ伺う筈だから善処してほしい」と記している(四四号)。
 もう一つ井伊家の禁裏守護の問題がある。二月二十二日、尚忠は詮勝に、井伊家の禁裏守護につき非常の際の手当ての次第を承知したい、との沙汰書を渡した(十七巻二三号別紙)。草案を書いたのは義言である。義言は三月十八日付の景福宛ての書状で、「ご守護の一件は再興の時節が到来した。この期を逸してはならない。自分が在京中に尚忠への答書を送るように」と記した(二五号)。三〇号に、この問題に関する朝廷宛て・尚忠宛て・幕府宛ての直弼上書案と、義言の幕府宛て上書案の四通を収めた。朝廷宛てのものは景福筆、他は義言筆である、井伊家から禁裏守護を取り上げようとする策動への対処として、守護の具体的強化策が詳細に記されている。景福は三月二十九日、京都への答書を作成中であると義言に報じている(三四号)。
 巻末に前巻に続いて義言の日記「秘中要記」第四冊を収録した。安政六年三月十六日から五月二十九日までの記事がある。
(目次一五頁、本文三三三頁、図版一葉)
担当者 小野正雄・杉本史子

『東京大学史料編纂所報』第28号 p.76*-77