大日本古記録 後愚昧記四附実冬公記

本冊は、後愚昧記の最終冊である。まず、前冊に引き続き後愚昧記の附帯文書の内、応安七年(一三七四)より永徳三年(一三八三)まで及び年未詳の分を収め、次に後愚昧記の補遺と参考文書をかかげた。
また三条公忠の息、前太政大臣三条実冬(一三五四〜一四一一)の実冬公記を附収した。これは、父公忠の後愚昧記と年代の重なるところがあるだけでなく、多くは後愚昧記の中に混入して、今日に伝来した事実があるからである。
次に参考目録として、後愚昧記及び実冬公記の伝来の跡をたどる上で手掛かりとなる目録の類を選んで載せた。
最後に附載したのは、解題、三条公忠・実冬略系、三条公忠・実冬略年譜、および索引である。
附帯文書の収録の仕方は前冊通りで、仮題をつけて収録した小文書群は、ある特定の人物とのやりとりになっているのが普通である。こういう相手として顕著なのは、本冊では、三条実継(一九通)と洞院公定(一一通)である。実継との書状の往復は、後愚昧記全体からみると圧倒的に多い。三条一門で、幕府に近しく、後光厳親政・院政、後円融親政・院政のもと、議定衆・評定衆であったため、実継は、公忠に対ししきりと故実について問い合わせ、同時に宮廷事情の情報を提供したのである。ところが実継が、応安八年正月一九日の新年の挨拶に、「同者相構遂拝謁、可散多年之蒙鬱候也」とのべているように、公忠は、ほとんどその実継と直接に面会することはなかった。これは、公忠がすでに宮廷の交わりを離れて、あまり外出せず、かつ自邸を旅所と称して恥じ、正式の客人を招けなかったためではあるが、公忠の住む転法輪大路と実継のいる正親町との間、さして距離はない。書状往復の細やかさと、対照的である。
洞院公定は三条家と同じく閑院一流であり、かつ公定の妻は、足利義満室日野業子の姉妹で、公定は、応安四年義満の執奏により洞院の家督を相続しえ、故実に関して義満を扶持するものの一人になっていった。公忠は、勧修寺経顕の内大臣拝賀を指南して、二条良基の批判をあびた時、公定に洞院家の故実の確認を求めていた(第三冊)。永和元年(一三七五)公忠と公定との間では、互いに所持していない書物の貸借がおこなわれ、公定は公忠の持っていない書物を他人から借りてくれるようにまでも頼んで来ている。公定の中園亭は、永徳二年(一三八二)四月から、後円融上皇の仙洞となり、公定は本所由緒の仁として義満の献ずる笛を請取っている。同三年二月に、上皇が遷って、亭は返却された。永徳二年九月一〇日頃公定は、義満の不興を買っていたようである。
実冬公記は、永和元年ほかわづか四年分しかないが、後小松天皇の外戚でありながら、幼帝を後見する役柄を奪われているという特殊な立場から、足利義満のふるまいを、詳細に記録している。永徳二年四月八日、後円融天皇譲位、後小松天皇践祚にあたり、義満は、内弁を勤め、中園亭から土御門内裏まで新主に同車し、土御門内裏では、新主を抱いて常御所にはいった。また嘉慶元年(一三八七)の天皇元服の時、戚里臣(外戚)が祗候する例になっている御髻の事に、実冬は召されなかった。しかし実冬は、応永二年(一三九五)正月義満の太政大臣拝賀に扈従し、その後まもなく右近衛大将を兼ねることができた。
挿入図版(口絵)は、実冬公記の中に継ぎ入れられている附載文書の内、応永二年四月九日兵部省移である。此の移の形式は、延喜式二十八の規定通りであるが、中世における移の原文書の遺存例は珍しいと思われる。実冬公記の同日条には、諸司は禄物として百疋を要求し、右近衛大将の実冬が家司の三善基統にこの文書をうけとらせていることがみえ、また後愚昧記応安七年十二月二七日によると、実冬中将の時には料足が無かったため、兵部省移は不沙汰であった。
実冬公記の紙背文書には、石井進氏が墨映文書と仮に名付ける、滲み写った墨の跡で、辛うじて一部判読できる文書がみられる。紙背文書の解読にあたり、古記録部以外の所内研究者にも助力を願ったところがある。また索引の編成作業、入力については、伊藤克巳ほか諸兄姉のお世話になった。
(例言三頁、目次四頁、本文二二〇頁、参考目録一六頁、附載一六五頁、挿入図版一葉、岩波書店)
担当者 菅原昭英

『東京大学史料編纂所報』第27号 p.74