大日本近世史料 広橋兼胤公武御用日記二

本冊には、宝暦元年正月より四月までの「関東下向日記」と、宝暦元年四月より十二月までの「公武御用日記」三(後半部分)・同四をおさめた。
 別記である「関東下向日記」(一名「東行之日記」)は、広橋兼胤が武家伝奏として関東に下向した際の日記であり、第一冊目は、宝暦元年(寛延四年)分より同六年分までが収載されているが、本冊には、兼胤にとっての最初の年頭勅使でもある宝暦元年分を収載した。正月十五日両伝奏に関東への年頭勅使兼女院使の発遺が仰出されてから発足に至るまでの準備、下向の賜暇、道中の様子、江戸着府後の手続き、城使・高家・老中等との面会・打合せ、江戸城での年頭祝儀・能見物・返答儀等の諸儀式、帰京道中、帰着後の奏上などについて詳細に記述されている。
 日記本文の「公武御用日記」は、四月一日、勅使の大任を果たして帰京参内、将軍返答の儀を奏上し、議奏衆より留守中御用引き継ぎを受けるところから始まる。
 兼胤はこの六月には武家伝奏就任以来二年目に入り、ようやく勤めに慣れて来た様子で、京都所司代の松平資訓、禁裏附(山木正信・田中勝芳、十月より田中に代わって長田元鋪)らと交渉・相談しつつ、また、女院や摂政、摂家衆及び議奏等の朝廷内の意向を聞き合わせつつ、次々に生起する案件の処理に文字通り駆け回っている。これらのうち、主なものを示すと、以下の通りである。
 関東下向以前よりの懸案事項としては、まず、太閤一条兼香女佐保君の女御入内仰出一件がある。大御所徳川吉宗の死去により延引したり、また、兼香の危篤のため御内意仰出が早められたりしたが、関東へ御内慮窺を経ての仰出は十一月二十七日になされている。これに関連して、佐保君の入内までの間の座所となる一条家の当主・摂政道香から、その間の「心附け」を関東に望む旨が示されている。つぎに、輪王寺宮の附弟手続き手違いに対する輪門令旨書き改め一件がある。これは、前年、曼殊院宮入道良啓親王を、輪王寺宮入道公遵親王の附弟とする手続きがなされた際、幕府から朝廷への窺が出される前に江戸で輪門令旨が出されてしまったことに対し、前例と違うことが問題となり、その釈明を摂政が求めたことに始まる。これは、朝廷側よりの再度の催促によって、この年八月に輪門から「気毒」の旨を記した令旨が到来したが、摂政は、さらに文言上関東の「間違」が明確になるように書き直しを求め、書き直し文例を示したところ、十二月、最終的な輪門令旨が到来し、摂政の聞済により落着した。この時期の幕府と輪門・朝廷間の関係を示す興味深い事例といえる。
 つぎに、この年新たに生じた案件としては、まず上賀茂社社司の不正に関する吟味と、それに対する咎申渡しの一件がある。これは、二月二十九日以来地震やまず、この震動は賀茂山に起きたものであり、上賀茂社社司が神木を濫伐し、かつ神饌を濫行した祟りである云々という巷説に端を発している。四月ごろからの調べが進む中で、同社司と非役氏人との間の対立があらわになり、また、処分の軽重や吟味の順序をめぐり、朝延と所司代・町奉行の間で幾度となく交渉がなされているが、十一月十八日に上賀茂社人への朝廷からの咎がまず申し渡されている。まだ、武家からの吟味が残されており、かつ、社家自身も処分に対する不満の動きを見せており、今後の推移が注目される。また六月には紫宸殿艮角の角柱が年来削り取られているということが発見され、この珍奇なことが何者の仕業によってなされたかの吟味がなされている。つぎに、七月には太閤一条兼香が重態となり、急遽、兼香に准后宣下があったが(七月二十九日)、八月二日に兼香は死去する。これに伴い、三日間の廃朝があり、摂政道香の混穢・五旬の暇の間の不出仕となり、その間の御用向きは左大臣近衛内前に仰出された。
 この他、大御所吉宗の死去に伴う勅使派遣、年号改元に伴う諸手続き・諸儀式等も注目される。二年目を迎えた兼胤の記述は詳細かつ明解である。
(例言一頁、目次二頁、本文二九六頁、口絵モノクロ図版三葉)
担当者 橋本政宣・小宮木代良・馬場章

『東京大学史料編纂所報』第27号 p.76*-77