大日本史料第十編之二十

本冊には正親町天皇天正元年年末雑載より同二年正月までの史料を収める。
 雑載は、前冊の続きとして、疾病・死歿、学芸・遊戯、風俗、交通・市場、所領、訴訟、年貢・諸役、寄進、売買、譲与、交換、貸借、物価・算用の各項目に類聚して掲載した。
 項目の性格上、在地の状況を物語る史料類を多く載せることができ、そのため大部のものとはなったが、この戦国終期における各地域での収納の展開ぶりなどを通覧できる興味深いものとなった。
 なかでも他地域に比して群を抜いているのは、近江の史料の充実ぶりで、浅井氏滅亡の際に虜となった農民がわが身を請け出すために書いた田地売券(三七三頁「下丹生神社文書」)、村落内での秩序形成能力の進展を示唆する烏帽子直帳(四一四頁「大谷雅彦氏所蔵文書」)など、いくつもの印象的な風景に出会うことができる。
 天正二年正月の分については、まず、信長の動向が注目されよう。岐阜城での歳首の酒宴に、前年滅ぼした朝倉義景・浅井久政・同長政の首を薄濃にして肴としたことは、あまりにも有名であるが(一日条)、義景歿後の越前の政情は不安定で、同国守護代前波長俊は、富田長繁等に攻められて自殺する。信長は羽柴秀吉等を敦賀に遣し、これに対処しなければならなかった(十九日条)。一方、大和においては、前年十二月、信長に降り、同国多聞山城を明け渡した松永久秀の跡に、信長は明智光秀、ついで、長岡藤孝を入れ、守備を固めている(十一日条)。なお、信長の嫡男信重(のちの信忠)が、次第に文書を発給するようになったことも、注意しておきたい(是月条)。
 地方の情勢については、それぞれの条の参照をお願いしたいが、主なものとして、島津忠長等が、肝属兼亮の将安楽兼寛を大隅牛根城に降したことにより、島津氏と肝属氏・伊地知氏との和睦の成立をみたことが、あげられよう(十九日条)。
 なお、歿日に事蹟を収載したものに、曼殊院覚恕がある(三日条)、覚恕は、正親町天皇の兄にあたり、天台座主でもあった。文芸関係の史料も多く残っており、国立歴史民俗博物館のご好意により、同館所蔵の高松宮家伝来禁裏本の「覚恕百首」を、新しく全文採録することができた。
(目次六頁、本文六〇六頁、挿入図版一葉)
担当者 染谷光廣・山室恭子

『東京大学史料編纂所報』第26号 p.95*