大日本古文書 幕末外国関係文書之四十三

本冊には万延元年十月六日から同月二十九日迄の日本側の外交関係諸文書、及びそれらに係りのある諸外国の外交書翰の翻訳を収めた。
日米関係においては、遣米使節の帰国に係る米国大統領他宛の幕府贈物進呈の件並びに米国対日贈物正式受領の件が中心的な課題となるが、ハリスは併せて武器使用指導者の貸与や将軍来艦要望を介して幕府の対応を探ってもいる。この問題に関するハリスの率直な意見は第一〇号文書や第三三号文書によく現れているのである。
幕府としては遣米使節の持ち帰ってきた洋書の翻訳やそれらの各機関への配分が問題となったが、その処理に関しては第一九号文書や第一〇九号文書を見られたい。
米国の対日政策に対しては他の在日代表には相当の不信感が存在していた。その内フランスに関しては第三四号文書が、オランダに関しては第八四号文書が参考となる。
尚、咸臨丸乗組員の一部は、病気のため暫時桑港において療養しており、箱館に帰着したのが八月下旬となったが、この件については第三八号文書並びに補遺第二号文書が触れている。
日英関係では、十月十五日に発生した英商モスの日本人役人銃撃事件が中心的な課題となるが、この問題は領事裁判権の日英間の解釈や横浜居留民と在日英国代表団との対立など複雑な諸問題とからみ合うこととなり、当時の外交問題を具体的に把える上での重要なケースである。第四一号・第五四号・第九八号文書等がそれを扱っている。
また、英国の世界政策上、幕府にロシアの領土拡張意図を告げることが本国政府の政策として存在していたことは、第四号文書によっても明らかである。
更に第二次アヘン戦争での英仏連合軍の完勝を幕府に明確な形で通告することも、両国の基本政策の上から当然導き出されることであり、そのことは第四〇号・第六〇号文書に具体化する。この延長線上に十一月に入ると、英仏両国艦隊の江戸湾入港という事態に到るのであった。
日仏関係では、九月十七日以降ひきつづいてナタール襲撃事件が双方の論議の主題となるが、フランスの対日姿勢の強化を切望する代理公使ベルクールの考えは第七三号・第八二号・第九二号文書によく現われており、軍事的圧力の使用をも彼は明言している。
尚、当時箱館在留のカションの消息に関しては第九五号・第一二〇号文書が物語っている。
日蘭関係の上では、この月は大きな波瀾はなかったが、開国以前から続く特殊な両国関係も含め、オランダの対日政策と対日観を知る上では、デ・ウィットの長文の月例報告書(第八四号)は重要な材料となるだろう。
日孛関係では日孛条約交渉開始への米英の仲介が関心を引くが(第二八号・第四二号文書等)、オイレンブルクは在日領事制度の調査に関してもハリスの助力を得ていた(第八〇号文書)。他方幕府は日孛条約交渉の開始を、新規約交渉拒絶の外交交渉の開始と連動して考えていた事実に関しては第五六号文書によって明らかである。
貿易に関する一般的問題としては、虚偽の輸出品申告書提出者処罰問題や馬匹輸出問題等があったが、より重要な問題として銅輸出問題が出てきており、幕府も十月十七日には銅器の横浜への直接輸送を禁止する処置を執ることとなった(第四六号文書)。
幕府の外交機能強化の課題では、語学学習や外国奉行所内の中枢的役職である各国書翰取調掛の待遇改善問題などがこの月には表面化している。
尚、遣米使節関係の新史料として、玉虫誼茂航海談聞書・谷文一航海談聞書を、また漂流民関係新史料として漂流民亀五郎航海談聞書を収めた。
本書の編纂に関し、第四十二巻にひきつづき、松本良太の協力を得たことを附記しておく。
(目次二九頁、本文五五八頁、索引一七頁)
担当者 宮地正人・横山伊徳・保谷徹

『東京大学史料編纂所報』第26号 p.98*-99