大日本古記録 言経卿記 十四

本冊は、前冊のあとをうけ、慶長十二年(一六〇七)正月より十月および、同十三年五月より八月までを収めた。史料編纂所所蔵の自筆原本の第三十四・三十五冊に相当し、日記の最末尾である。記主言経の六十五六歳にあたる。日記中の主な記事を抜き出してみると、次のとおりである。
 十二年二月一日条には江戸城近辺に火事があったという。同月十二日には猪熊教利が官女との密通が露顕し勅勘を蒙って出奔した。そこで禁中内々御番衆の闕改があり、内侍所および鳥飼部屋に小番衆の出入りを禁ずるなど、禁中の風紀の乱れを匡す一連の改革が見える。四月五日、冷泉為満は四度目の妻加藤光泰女と離婚した。同月十二日には朝鮮来聘使が上洛し大徳寺に宿泊している。五月二十日前大納言日野輝資が娘大典侍輝子の死去を機に出家した。七月一日、所領一乗寺田中のことで訴訟のため伏見に赴いた。九月十三日、政仁親王の御装束調製を仰せつかった。同月二十八日条には貸屋造作の事が見える。
 その他、朝廷の行事や学芸・医薬、また神社仏閣への参詣など、既刊の諸冊と同様に身辺の事を書き連ねているが、十二年四月十六日から閏四月二十七日まで、七月十三日から同月末まで、十月十一日から翌十三年五月十五日まで、六月十日から七月末までが欠けている。感冒を煩った(十二年四月十五日条)などと書かれている場合もあるが、日記の筆を執らなかった理由はとくに示されていない。漸く体力に衰えが見えてきたためでもあろうか。ちなみに十三年八月二日が記事の最後で、このころになると筆勢もかなり乱れてくる。言経はこの二年半後、慶長十六年二月二十七日に六十九歳で没する。
 なお、巻頭図版には、原本第三十四冊第八丁紙背の文書を掲げた。内容は後藤源左衛門尉忠正から子息の言緒に宛てて徳川家康参内の装束について問い合わせたもので、慶長十年と推定できる。『言経卿記』と『言緒卿記』にこの文書と密接に関連する記事が見られる事と、原本の傷みが激しく、今後の閲覧に備えるため、全冊の袋綴を解体、撮影したことを紹介する意図からである。
 本冊は最終冊であるので、冊尾に解題・略系・略年譜・索引を附収した。(例言一頁、目次一頁、本文九二頁、挿入図版一葉、解題・略系四一頁、年譜一四頁、索引二三五頁、岩波書店発行)
担当者 田中博美

『東京大学史料編纂所報』第26号 p.96**-97