日本関係海外史料 オランダ商館長日記 訳文編之七

本冊は原文編之七の全文を翻訳したもので、二人の商館長、オーフルトワーテル(一次)の日記の全文とエルセラック(二次)の日記の一六四二年十月二十九日より一六四三年十一月八日までの記事を収録し、その間にエルセラックのバタフィア発東京経由長崎に至るリロ号航海記(一六四三年四月二十四日〜七月末日)が挿入される。
 なお収載史料の書誌的解説は所報二四号に詳述したので割愛する。
 オーフルトワーテルは、前任者より事務を引継ぐと、十一月十九日に長崎を出発し参府の途に就いた。十二月二十四日に江戸着、翌四三年一月五日登城拝礼、同月二十七日江戸を発して、三月二十七日長崎に帰着した。彼の長崎在任中は、一六四二年八月に薩摩で捕えられたアントニオ・ルビノ等密航宣教師の殉教、四三年七月一日に筑前梶目ノ大島で捕縛されたイエズス会士アロンソ・アロヨ等の件を除いて特に重大な事件はなく、オランダ人の処遇も前年と大差なかったが、病で致仕した長崎奉行柘植正時の後任、山崎正信が一六四三年三月三日に長崎に到着した。なお、四三年三月十五日には、前記の柘植正時の訃報が齎されている。馬場利重は四月一日に江戸へ出立し、以後長崎での政務は山崎正信の担当となった。一方、エルセラックは同年四月二十三日付辞令により再度日本商館長に任命され、その翌日、リロ号に搭乗して僚船カペルレ号を伴い、バタフィアを解纜、東京・タイオワンを経由し、七月末日に長崎に到達し、八月一日長崎に上陸、商館長の権限を引継いだ。この間の記事はリロ号航海記に記述されるが、東京では、国王鄭〓の広南征討に関連して、東京の一高官の謀叛や高平に拠る莫氏の残党がケチョ(ハノイ)を窺うなどの風評があって、国内の政情は混迷し、東京でのオランダ人の取引も停滞した。エルセラックはハイフォン港外の真珠島(ホン・ダウ島)で五月三十日から六月十日まで待機したが得るところなく、タイオワンに向かった。タイオワンでは、唐船の日本貿易を掌握した鄭芝竜に妨害されて入荷は激減し、同地の長官代行ル・メールは日本向け貨物の調達に苦慮していた。エルセラックは日本到着後、総督の訓令に基づき、その対策を講ずべく、中国船に対する武力行使の可否を長崎奉行に打診することとなる。この件をめぐる日本側との交渉と駆引は本日記の最も興味ある部分である。なお、エルセラックの再来を機に、蘭船に対する処遇は著しく改善された。けだし前年齎された総督訴状と家康朱印状の効果であろう。十名の蘭人抑留を惹起したブレスケンス号南部漂着事件が、結局オランダの寄船の全国諸浦寄港を公認し、家康朱印状の趣旨を確認させる結果となったからである。
 本冊の翻訳には日蘭学会のルドルフ・バホフネル氏から多大の協力を得た。
(図版四、例言一〇頁、目次五頁、本文・附録三二二頁、索引二二頁)
担当者 加藤榮一・松井洋子

『東京大学史料編纂所報』第26号 p.99*