大日本史料第六編之四十一

本冊には南朝長慶天皇の文中三年=北朝後円融天皇の応安七年(一三七四)六月から十二月までの史料をおさめる。
この間の大きな事件は、興福寺衆徒の訴によって応安四年十二月以来京都に鎮座していた春日社神木の帰座と、神木動座のために延期されていた後円融天皇の即位式の挙行である。後者は、践祚から四年近くを経過して、漸く実現したもので、後光厳上皇が本年正月に歿しているために、諒闇中の即位となり、嘉承二(一一〇七)年の鳥羽天皇の例に倣って行なわれた。詳細を伝える史料としては「後愚昧記」「師守記」のほかに、内弁をつとめた右大臣九条忠基・権少外記中原師豊・右方親王代をつとめた左兵衛督一条公勝らによる即位記がある。また「後愚昧記」付帯文書のうちから収録した、三条公忠と同実継の間でとりかわされた書状に、神木帰座から即位に至る一連の行事への、貴族達の対応をみることができる。
このほか公家関係の史料では、「柳原家記録」七十七所収の「勅裁口宣 仲光卿記」中に、本年九月から十一月にかけて蔵人権右中弁の勘解由小路仲光(九月二十八日に左少弁から権右中弁に転任)が奉じた綸旨の控えが多数のこされており、他に類例のない興味深い内容のものが多い。
また、応安七年の日次記である「豊原信秋記」には数種の写本があり、いずれも正月から八月十六日までのものである。しかし、曼殊院所蔵の「教訓鈔及続教訓鈔」の紙背に、同記の正月から十二月十七日にいたる写しが存在する。但し、裏打紙が厚いため判読は非常に困難で、本冊には判読可能な範囲で収録した。
死歿記事では、檀渓心凉・夢巌祖応・定山祖禅の三者に多くの頁をあてた。祖禅関係の史料のうち、弟子の不器中正による「祭普応円融禅師文」は、石井積翠軒文庫所蔵の「搏桑集」所載のものだが、「搏桑集」は現在所在不明のため、『東福寺誌』に拠った。同じく祖禅の証判を持つ文書を「永明院文書」から収録したが、これに関連すると思われる祖禅の書状が『山城名勝誌』巻第十六に引かれている。現在この文書は「永明院文書」中にみることができないので、本冊には採らなかったが、興味のある方は参照されたい。
(目次二五頁、本文四二〇頁、挿入図版二葉)
担当者 村井章介・山家浩樹・小泉恵子

『東京大学史料編纂所報』第25号 p.78*-79