大日本古文書 家わけ第十九「醍醐寺文書別集 満濟准后日記紙背文書之三」

前冊に引きつづき醍醐寺所蔵満済准后日記永享四年十月より同七年四月に至る分の紙背文書を翻刻し、これによって同紙背文書の刊行を完了した。満済は同七年四月廿三日までの日記をのこし、同年七月十三日歿するが、紙背中には前年歳末に一色教親に充てた書状土代を最後とし、七年付と推定できる彼自身の発信文書の土代は一通もなく、また逆に満済充て年次明確な最後の文書が、「千万無御心元存候」と彼の病を案ずる一条兼良の書状であることに、約十年この紙背文書の編纂にたずさわった者として若干の感慨を禁じ得ない。
ひるがえってこの紙背文書の総体を概観すると、使用された文書切片は一七〇〇余点、これを可能なかぎり連続させて形成した文書数は八四〇通余に達する。
この中五〇〇通以上が満済書状土代で、しかもその大半は書き損じに類する断簡文書であるが、正文とおぼしいものが若干存在し、書状正文の差出側伝来という一般的問題に一つの素材を提供している。そのほかでは京都法身院から発せられた大量の義賢書状が残存するが、広い意味での寺内における意志の伝達さえもが、「文書」によって行われていた事実にあらためて注目する必要があるのかも知れない。
また大乗院門跡経覚書状のごとく、量的にもまとまっており質的にも興味ぶかいものもあるが、しかし編者があらかじめ満済准后日記紙背という名から期待した、たとえば幕政の機微にかかわるような文書はほとんど発見されなかった。恐らく満済は、日記が死後他見されることを考慮し、用紙の利用に際しても慎重であったためと思われ、この点は用紙の切断、無秩序な配列も意識的に行われていることにも関連すると考えられる。
なお原本の利用が不可能であったため、担当者の非力と相まって、複数断片の合成作業や文字の解読に多くの誤りをおかしたであろうことは充分予想される。
利用者の留意をお願いする。
(目次二四頁、本文二五八頁)
担当者 笠松宏至

『東京大学史料編纂所報』第25号 p.79**-80