大日本近世史料 近藤重蔵蝦夷地関係史料三

本冊には、前冊にひきつづき、本所所蔵「近藤重蔵遺書(近藤重蔵関係資料)」のうち文化四年(一八〇七)と翌五年の蝦夷地関係史料−絵図・上申書草案等四点を収め、附録として参考史料二点(自筆)を収載した。巻末に「近藤重蔵蝦夷地関係史料」全三冊の総索引を附した。
寛政十年(一七九八)五月、松前蝦夷地御用として初めて松前の地に立って以来、享和二年(一八〇二)まで前後五回、東蝦夷地からクナシリ・エトロフ島を踏査したが、享和三年・文化元〜三年は蝦夷地関係の役目から離れて江戸にあった。寛政十年〜享和二年の足跡については本所所報第十九号・第二十一号を参照願いたい。
文化四年六月、重蔵は幕命により六回目の踏査のため江戸を立ち、七月箱館に到着した。一行のうち神谷勘右衛門他二名は東蝦夷地からクナシリ島方面に向い、重蔵と山田忠兵衛・田草川伝次郎の一行は今回初めて西蝦夷地を巡見する。
十月一日天塩川の川口テシヲより雪中の遡行を開始し、十日上流のノカナンに至った。この間、水流の方向、川幅、水深、天候、中洲や岸辺の状況、植生、伝説、アイヌ人の家数と居住生活等を克明に記録したものが一号史料「天塩川川筋図」である。重蔵一行はノカナンより分水嶺を越えて、タナシヘ出た。二号史料「石狩川川筋図」は、一号史料に続くもので、十月十二日夕ナシヘ出てビビに至り、十三日ビビを発し、チュクベツに至って一泊するまで二日間の行程を記している。チュクベツより先は描いていない。このあと一行の乗船が河中で転覆し、九死に一生を得、同年十一月九日松前に至り、十二月八日帰府した。東蝦夷地に向った神谷勘右衛門は九月クナシリに至り、猛吹雪や厳しい寒気の中廻浦調査を行い、十一月ネモロに帰船したが、ここでも厳しい情況の中で調査を続け、ついにこの地で越年し、江戸に帰ったのは翌五年二月であった。三号史料は、上記の困難を極めた行動にもかかわらず、松前や口蝦夷地に派遣された者達より手当が不当に少額なことを訴えて、この際ご褒美を頂きたい旨、重蔵の上司遠山景晋による上申書草案である。四号史料は近藤・神谷一行の御用金三百両の入用分決済に関するものである。
附録として収載した一号史料は、重蔵が秦檍丸(一七六〇〜一八〇九)の著「蝦夷島奇観」を写したものであるが、模写の年時は不明である。檍丸は村上島之丞の別名で、寛政十年重蔵の蝦夷地行に普請役下役雇としてクナシリ島まで随行しており、また文化四年には中川忠英配下として松前辺の巡見に参加していることが本書第一・二冊にみえている。後補の題簽に「蝦夷来由記」とあるのは第一図「マチネカモイ図」のわきに記されたものをそのまま使用したものである。
「蝦夷島奇観」は東京国立博物館所蔵の檍丸自筆本が近年刊行された(研究解説佐々木利和・谷沢尚一、雄峯社、昭和五十七年)。原本は折本で、本文十二帖、附録一帖、本文に一一三図があり、近藤本の十七図は、絵の内容はそれぞれに符合するが、図柄はかなり異なり、第一図のごときはまったく違った構図であるから、東博本とは全然別系統の写本を模写したものと思われる。附録二号史料は表紙に「親類書 近藤重蔵」とあり、今は茶表紙がつけてある。文政二年(一八一九)十一月、大坂城代松平輝延と大坂定番(京橋口・玉造口)へ各一冊ずつ提出したものの控である。前半は、初めに禄高と「大坂御弓奉行実子惣領近藤重蔵卯四十九歳」と自らを記して、官歴、長崎・蝦夷地での勤務、著述書等の履歴を記し、草稿であるから附箋十一枚が貼付されている。後半は「親類書」とあり、父方・母方・父実方とに分けて、それぞれに祖父より子供の代まで詳細に記述してある。
重蔵は蝦夷地踏査の功績により、文化四年十二月十五日将軍家斉に拝謁し、翌五年二月晦日書物奉行に昇進した。しかし、以後二度と蝦夷地のことに係わることは無かった。その後半生については周知の通りである。
(例言一頁、目次二頁、本文二〇九頁、索引六九頁、挿入図版一葉)
担当者 高木昭作・鈴木圭吾・鶴田啓

『東京大学史料編纂所報』第24号 p.68*-69