大日本維新史料 井伊家史料十六

本冊には安政六年一月の史料を収めた。
 安政五年十二月晦日、「鎖国の良法に引きもどすべきだが、幕府の条約調印の事情も了解したので、引きもどしは当面猶予する」との御沙汰書が下った。老中間部詮勝の使命は一応達成されたのである。詮勝は、長く滞京すると浮説が生じると思うから、直ちに帰府すると井伊直弼に伝えた(七号)。一方、九条尚忠は悪謀方の台頭を恐れて詮勝の在京を希望し、どうしても帰府するなら京都に常住の目付を置いてほしいとの意向を漏らした(五〇・五八号)。長野主膳は、詮勝が帰府したいと尚忠に申し上げるのを押しとどめた(六〇号)。
 この時期の京都での重要問題は、堂上、特に鷹司政通・同輔煕・近衛忠煕・三条実万の処罰と、公家の家臣の逮捕・吟味であった。京都所司代酒井忠義は、これらに消極的であるとして、直弼・詮勝・主膳などから非難を浴びてきた。主膳は一月五日付の宇津木六之丞宛の書状で、堂上が罪を自認し辞官・隠居・入道を願うようにしたのは忠義の功績だが、だからといって旧悪を不問に付してはならない、と述べている(一〇号)。また詮勝には、堂上が処罰されても幕府を恨まないようにする方策につき意見書を出した(一五号)。さらに主膳は、京都町奉行与力渡辺金三郎から入手した三条家家臣森寺常安・同丹羽正庸・鷹司家家臣小林良典らの申口書や、水戸方の者の探索書などを江戸へ送っている(一五号)。正月十一日、詮勝は直弼に書状を送り、忠義の態度は直弼や自分の叱責で好転し、今は関東御為筋を心得ている事、忠義を誤らせたのは家臣の三浦七兵衛であると記した(一六号)。つづいて十六日付の書状でも、近衛忠煕が悪人である事を知り驚いたという内容の詮勝宛忠義書状を同封し、忠義は改心しつつあると直弼に報じている(三三号)。主膳も、十二日付の六之丞への書状の中で、忠義の吟味方針は手ぬるいので、近く改心の入説をする積りと述べた(二二号)。
 正月十日、孝明天皇は「公武合体で外敵を退けるべき時に、堂上が辞官落飾を願うのは遺憾であり、関東の措置は不都合である」との勅書を下した。尚忠はこの日、自邸に忠義を呼び、勅書への返答の仕方を具体的に指示した。主膳は十八日付の六之丞宛の書状で、この勅書の写しと、「政通以下の四方が先非を悔い、辞官落飾を願っているので、それを認めるのは当然である」という内容の詮勝勅答案の写しとを書き送っている。勅答案の原案を記したのは、主膳と思われる(二二・四四号)。
 このほか、知順・麟孝ら水戸藩が京都へ上らせた人物の探索、前年八月八日の降勅の水戸藩からの取り戻し(五八号には老中宛および水戸藩主宛の御沙汰書案を記載)、彦根藩の京都守護、同藩の財政窮乏への対処などが、重要問題であった。
 一方、江戸では、京都から護送された逮捕者の吟味の仕方をめぐり、五手掛の意見が二つに分かれた。五手掛を構成していたのは、寺社奉行板倉勝静・町奉行石谷穆清・勘定奉行佐々木顕発・大目付久貝正典・目付松平康正の五人で、このうち勝静と顕発が吟味打ち切りを主張していた。井伊直弼は太田資始・松平乗全の二人の老中に対し、このままでは吟味は進行しないから、勝静・顕発それに評定所組頭木村勝教を罷免すべきである、という強い意思表示をおこなった(三六・三九・四〇号)。この詳しい状況を、六之丞が極密書によって主膳に伝えたのは、二十九日であった(六二号)。三人の罷免は二月二日におこなわれた。
(目次一四頁、本文三二七頁、図版一葉)
担当者 小野正雄・塚田孝・杉本史子・松本良太

『東京大学史料編纂所報』第24号 p.69*-70