幕末維新期盛岡藩史料調査

維新史料室は、一九八七年十一月十日から十四日まで、盛岡市の盛岡市中央公民館並びに岩手県立図書館を訪れ幕末維新期の盛岡藩史料の調査をおこない、あわせて前年十一月に調査をすませた仙台市斎藤報恩会・宮城県立図書館所蔵仙台藩士桜田良佐関係史料(『所報』第二二号参照のこと)を写真撮影した。今回の調査には稲垣敏子氏の協力を得た。以下にその概要を記す。
一 盛岡市中央公民館
 同館所蔵史料の目録は『盛岡市産業文化館郷土史料目録』(一〇七〇—九三)に収められている。
    (1) 覚 書
 盛岡藩の国元御用部屋日記で、幕令・藩内人事・藩達等が網羅され、幕末維新期に関しては同藩の最も基本となる史料である。天保十二年迄の「雑書」を引継いだ形をとっており、天保十二年から明治三年(尚天保元年の分が一冊ある)迄七二冊が揃っている。月の始めに御用番家老の名前が記されている。以下、各年日記の中より重要記事を抄出して之を示す。
〓「覚書」(嘉永六年四〜六月)                      一冊
「(六月八日)
    演 説
  去月下旬野田通御百姓共大披鉄山罷越致乱妨、夫〓宮古通大槌通御百姓とも相誘引騒立チ間敷様ニ付、早速御吟味被成候処、村方困窮之為愁訴致候訳ニハ無之、何れ〓入込候者ニ候哉、無頼之悪党とも打寄、奸みを以御百姓共狩立、衆力を相頼、人家江押入、金米銭掠取、強盗之業ニ候、依之夫々御手当被 仰付置候ニ付而ハ、
  全
  御城下ハ勿論、外村方も壱人成共罷越候儀ニハ無之候得共、自然抜通忍居、狼藉之程も難計候条、銘々火之元用心之儀ハ勿論、惣而油断無之様可致事、右ハ御家門方始大小之諸士諸医寺社町并五代官所南通大迫通遠野江可申達候、
   但三閉伊并奥通雫石通大更江ハ達ニ不及候事、
  右之通夫々申渡候様寺社奉行大目付御目付町奉行江申渡、
 一江戸江今日調次第、七日振飛脚□□牧太組二人差立、御用之儀共申置、
 一                       一戸官平
                         小泉伝五兵衛
  仙台江御用有之、今日出立被 仰付、御目付を以申渡、           」
「(六月十九日)
 一江戸表去ル十二日立七日振飛脚高野広志組弐人、今昼着、御勝手御用申来、
 一前書有之御飛脚、今昼着、去ル十一日御用番松平伊賀守殿より御呼出ニ付、御用人加御留守居小野寺伝八参上候処、御書付一通、公用人を以御渡被成候段申来、左之通
   一筆令啓候
  公方様・右大将様益御機嫌能被成御座候間、可御心得候、将又其方儀、津軽越中守御暇被下、在所到着以後可有参府旨見込被 仰出候処、越中守儀御暇被下以後病気ニ付、蝦夷地警衛向之儀は重臣共江申付、当秋中迄滞府養生仕度旨相願候付、願之通相達候、依之当年之儀は越中守ト不及交替、勝手次第参府可有之旨被 仰出候条、可被存其趣候、恐々謹言

『東京大学史料編纂所報』第23号