大日本古記録「岡屋関白記」

岡屋関白記は藤原兼経(一二一〇−一二五九)の日記で、他に「兼経公記」「岡屋殿御記」等と称される。「岡屋」の名称は、記主兼経が、晩年に山城国宇治郡の近衛家領岡屋荘にあった別業岡屋殿に住み、「岡屋殿」と称されたことによる。兼経は近衛家第三代家実の三男で、兄の左大臣家通が元仁元年急逝したため家を継ぎ、四条・後嵯峨・後深草天皇の摂政・関白を勤め、建長四年弟兼平に摂政の職を譲り、正元元年五十歳で歿した。
 本書の現在知られる年紀は貞応元年−建長三年であるが、散逸が甚だしい。現存する日付で最も溯るものは、貞応元年十二月二十一日で、兼経が十三歳で元服した翌日にあたり、この時に起筆された可能性が高いと思われる。一方日付の下限は、兼経が四十二歳の建長三年閏九月二十九日であるが、嫡子基平の日記『深心院関白記』により、出家前年の康元元年七月まで、兼経が日記を書いていたことが知られる。その執筆態度から推して、彼が元服以後出家或いは死歿に至る頃まで、ほぼ連続して書き続けたと考えてよいであろう。
 本書は、陽明文庫に重要文化財の七巻(自筆本一巻・古写本六巻)のほか、室町期の写本三点が所蔵され、近世の写本の祖本となっている。今回大日本古記録の底本としては、陽明文庫所蔵本とともに、本所で調査した広橋真光氏所蔵史料の中から発見された写本一冊を使用した。
陽明文庫所蔵
 自筆本 一巻 建長元年春(正月十五日条の途中まで焼失)
 古写本 六巻 貞応元年−元仁元年・寛元四年春夏・宝治二年十二月閏十二月・建長二年夏・建長二年十月・建長三年秋
 岡屋殿深心院殿御記之抄 一冊 本文は近衛房嗣の筆跡で、岡屋関白記にみえる語句の書き抜きなどと、貞応二年−安貞二年の岡屋関白記の簡単な抄出からなる。記事の重複や混乱があるが、古写本が現存しない元仁二年以降について底本に用いた。(訂正 三一四頁四行 後知足院→深心院)
 岡屋殿中納言御着陣記 一巻 岡屋関白記の嘉禄元年二月三日条のうち、兼経が中納言に任じられた後初めて着陣した記事の、近衛房嗣による抄出。
 御譲位并御即位記 一冊 貞永元年十月−十二月。永正八年七月の書写奥書があり筆者は不明。十月四日の後堀河天皇譲位・四条天皇践祚と、十二月五日の四条天皇即位の詳細な記録を中心とする。
広橋真光氏所蔵
 岡屋関白御記 一冊 仁治三年三月十八日の後嵯峨天皇即位記。尾部を欠く。洞院家所蔵の写本を祖本とし、広橋守光書写と考えられる。
 本書の逸文としては、現在陽明文庫に所蔵される『勘例』(架番号 一四函-八三)に見える一例のみが知られる。
 現存する部分によれば、文章は概ねさほど感情を交えない淡々とした筆致で、簡略な記述が多いが、時には感懐を述べることもあり、例えば、建長二年六月六日条、同三年八月十四日条には、後嵯峨院の近臣に対する兼経の反感が記されている。また前述の譲位記・即位記及び朝覲行幸記(建長二年十月)など、大きな儀式については詳細な記録を残している。
 注目される記事としては、まず寛元四年六月記には、前執権北条経時の死後、前将軍九条頼経が名越光時らと新執権時頼の排除を図ったことが露見し、頼経の京都送還に至る事件について、その経過とともに、頼経の父道家の動揺や、折しも頻発する火事とあいまって騒然たる京都の状況などが記されている。そしてこの事件を契機に九条家が失脚し、近衛家が優勢となったのである。
 他には、寛元四年正月−四月にみえる、妹鷹司院長子(後堀河天皇中宮)が出家に至る背景、宝治二年十二月・閏十二月の、弟兼平への摂政譲与の希望についての幕府との往来、また譲与を祈願する春日社への告文など、建長元年二月閑院内裏焼亡、三月蓮華王院焼亡などがある。
(例言四頁、目次二頁、本文三〇七頁、解題五頁、年譜二四頁、略系二頁、索引二八頁、図版一葉、岩波書店発行)
担当者 吉田早苗

『東京大学史料編纂所報』第23号 p.44*-45