大日本近世史料「細川家史料」十一

本冊には、前冊に引きつづき、寛永十年正月より、同十一年末に至る二年間の、三齋忠興宛忠利書状二一五通(第五七一号〜第七八五号)と関連文書七通を収めた。このうち、書状原本は二通で、これは図版にても紹介した。その他は案文の留書に収録されているものと、一紙の書状写である。本冊に収録した留書の書名及び整理番号は、次の通りである。
『三齋様江御書案文』寛永十年正月−十二月(整理番号四−二−一〇四)
『三齋様御書案文』寛永十一年正月−十二月(整理番号八−一−三四ノ一)
右の書状案を収載するにあたっては、前冊までと同様、必ずしも留書の記載順によらず、年月日の順に配列し、各冊ごとの整理番号は省略した。なお、本冊所収の忠利書状の時期は、忠興文書の第五巻に当たる。前年肥後に入国した細川氏は、寛永十年初頭から新領国経営の体制作りを急いでいる。まず、知行割を急ぐ必要があり、三齋からも、八代領の所分けを急ぐようせかされている。しかし、加藤忠広時代の給人知がわからず、百姓も免を隠すゆえ物成の平均値を出せず、四五月に内検を行い、所務収納の時期には知行割を完成させたいと、忠利は伝えている。忠利は、この年三月には、初めて新領国の巡見を行い、八代領においても、大規模な治水工事が起こされている。
この間にも、諸方よりの転封賀使への応接、昨年末江戸上邸の類焼(これには、大国など拝領仕候ニか様之事一色も御座侯、一段満足との感懐)、八代城改修につき幕府への用心深い対応、国中水主・舟改、奉公人雇用等多忙を極めている。
この年には、幕府の国廻上使が全国を六つに分けて派遣され、九州地方には、正使小出吉親・副使城信茂・同能勢頼隆が、総勢四百余名にのぼる従者を引き連れて三月下旬に九州小倉に到着、八月末には肥後を巡見した。この一行に対して、細川氏は、上使への進物、宿所・休憩所の設営、輸送用人馬の調達など細心の配慮をしている。家光の厳命があり、上使たちが進物の類、余計の便益を一切受納しなかったことは、注目に価する。
翌十一年には、家光が上洛を挙行した。前年十月に江戸に出府していた忠利は、五月上旬に暇を与えられ、家光に先立って上鳥羽の宿所に入った。七月十日には家光が二条城に到着、参内を果たし、堺・大和・大坂を巡行した。三齋もまた、八代より上洛して将軍に謁した。将軍への謁見後、忠利は帰国の暇を与えられ、八月一日に上鳥羽を発ち、帰国の途についた。帰国後は、キリシタンの穿鑿に忙殺されている。寛永十年より長崎でのキリシタン改めは更に強化されており、宣教師や信者が近隣諸国に逃亡した。忠利も、キリシタン潜入の報を受け、騎馬の者を派遣し、道留・舟留をして対応し、領内の転びキリシタンからは起請文をとるなど苦心している。
幕政の動向については、前冊に詳しく経過が記されている福岡の黒田家の内紛が、家老栗山利章の処罰で一応決着した。また、長崎奉行を罷免された豊後府内城主竹中重義も、長崎に遣わされた神尾元勝・曽我古祐の報告を待って、十一年二月二十・二十一日の両日西丸にて糺明され、親子ともに切腹となった。勘定頭伊丹康勝は、旗本の知行割の不手際で「勘当」され、他に商人への融資の件等が露見し、一時困難な状況に陥っている。
幕府中枢部では、春日局の子息で年寄として期待された稲葉正勝が、寛永十一年正月二十五日に病歿した。同年三月三日には、幕政処理の迅速を期すため、年寄の任務を六人の若出頭衆と町奉行に分割せしめた。この機構改革については、『所報』第十一号「細川家史料五」に詳しい説明がある。寛永十年九月と十月の二度にわたる家光の病気についても、忠利は江戸の噂などを三齋に絶えず連絡している。家光は、退任のことまで口にし、諸大名は病状の急なるを憂えて毎日二度三度と登城したという。
細川家の家族関係では、寛永十一年三月、江戸邸において、忠利の長子光尚(六丸)が、烏丸光賢に嫁した忠興の女万の女である従妹〓々姫と婚儀を行った。八代にある三齋四男立孝(立允)は、五条為適の女との縁談がまとまり、同年十二月に八代で婚儀をあげている。
(例言二頁、目次一六頁、本文二五六頁、人名一覧一八頁、挿入図版二葉)
担当者 加藤秀幸・山本博文

『東京大学史料編纂所報』第23号 p.46*-47