大日本史料第七編之二十五

本冊には、応永二十三年八月〜是歳(綱文部分)と同年雑載に関する史料を収録した。
応永二十三年綱文部分(八月〜是歳)は、同年の後半部分に当たるが、本年から『看聞日記』が始まったことや、宮内庁書陵部における近年の伏見宮旧蔵書の整理などによって、伏見宮家の動向を詳しく辿れる。
 特に重要なのは十一月二十日条に「伏見宮栄仁親王薨去アラセラル」である。伏見宮初代の栄仁親王は、本年初めから「御悩」がちのため療治や平癒祈祷(八月二十四日条など)を重ねていたが、名笛柯亭を献じて、後小松上皇から室町院領を安堵され(九月三日条)、貞成王に本尊や琵琶譜などを譲与している(十一月十六日条)。この十一月二十日「薨去」条では、事蹟史料として秘曲伝授関係(琵琶関係)史料を多く収録した。とりわけ栄仁親王御筆『妙音天像伝来記』(宮内庁書陵部所蔵)は重要なので挿入図版とした。宮内庁書陵部から格別な便宜を戴いた。
 十一月十六日条「後小松上皇御所上棟」も重要な事項といえる。本年七月一日に上皇御所は火災に遭っていた(前冊所収)。その間の、上皇御所造営段銭に関する史料も収録した(八月二十三日条など)。
 一方、武家側の事項としては、上杉禅秀(氏憲)の乱が起きたことが特筆される。これについては十月二日条「足利満隆、前関東管領上杉氏憲ト謀リテ兵ヲ挙ゲ、関東公方足利持氏ヲ撃タントシ、尋デ鎌倉由比浜ニ戦ヒテ之ヲ破ル、持氏、駿河ニ遁ル」をメインとし、その後の双方の抗争や、この関東兵乱により、将軍足利義持が諸大寺社に修法させた記事については別の綱文を立てて収録した(東寺五大尊護摩、十月十九日条。石清水八幡宮愛染王法、十一月十四日条)。十月三十日条には「足利義嗣、山城高尾ニ出奔シ、尋デ出家ス」などとある。
 九月十一日条「足利義持、南都ニ下向、春日社ニ参詣ス、翌日、東大寺宝蔵ノ開封ヲ見物ス」も貴重な事項だが、未紹介の写本『兼宣公記』(東洋文庫本)や『大判事章茂記』(勧修寺家本、京都大学文学部所蔵)などを引用できて、内容の詳細を知り得た。
 また九月九日条「島津忠国、祢寝清平ニ島津荘大隅方大祢寝院瀬筒村ヲ安堵ス」の典拠史料として、このたび本所所蔵が確認された〔平姓祢寝氏正統文献〕巻十一を掲げた。これまで掲げて来た〔新編祢寝氏世禄正統系図〕の原本で、今回が『大日本史料』として初めての使用である。
 禅宗関係では九月八日条「南禅寺法堂落慶」が挙げられる。語録(『繋驢橛』)のみから新事実を引出して、独立綱文を立て得た。十一月二十日条「甲斐向嶽寺住持同国聖応寺等開山無住道雲寂ス」の史料は、玉村竹二氏の筆写ノートから多大な便宜を得た。
 応永二十三年雑載は、災異と社寺の項を収める。うち社寺の項では、写真撮影の進行によって、『醍醐寺文書』の本文を多量収録できた。また地方史誌刊行の進転によって、全国の金石文、関東地方の板碑の銘文を可及的に多く収録できた。
(目次一五頁、本文五八二頁、挿入図版二葉)
担当者 山口隼正・榎原雅治

『東京大学史料編纂所報』第22号 p.33*-34