大日本史料第六編之四十

本冊には、南朝長慶天皇の文中三年=北朝後円融天皇の応安七年(一三七四)正月から五月までの史料を収める。
本冊前半の中心をなすのは、北朝後光厳上皇の死歿に関わる記事である。病状悪化、正月二十九日の死、その後の仏事に関し、「愚管記」「師守記」「洞院公定日記」「保光卿記」「豊原信秋記(応安七年記)」等の記事が重なる上、「凶事部類」に収められた「良基公記」なる史料も仏事にくわしく、「後愚昧記」には、御前僧のひとり上乗院経深の仏事記録を載せ、また七々日忌に催された曼荼羅供について隆源の見聞記が「醍醐寺文書」に残存するなど、豊富な史料により細部まで窺うことができる。なかには、若狭国太良庄で、守護の手により「新院御仏事料足」一貫五百文が賦課され(二四〇頁)、また、曼荼羅供の際の布施物は、阿闍梨宗助が「市店(装飾師歟)」で借り召している(三〇一頁)など、経済史の方面から注目される記事も含まれる。
後半では、中山法華経寺日祐の死歿記事に多くの頁をあてている。編纂にあたって立正大学の中尾堯氏の御助力を仰ぎ、伝記史料のほか、日祐筆記の「祐師文書事」「本尊聖教録」「当家法門目安」を翻刻した。また日祐が授与した本尊三十四点を一覧表の形式で列記し、うち百名を越す署名のある、横浜市上行寺所蔵の板本尊は、カラー図版で挿入したうえ活字化した。
他に正月五日歿の碧潭周皎と同二十四日歿の古先印元もそれぞれ興味深い。周皎は夢窓疎石の法を嗣ぎ、細川頼之の帰依を受けて西山地蔵院の事実上の開祖となった人、北条氏の出という。地蔵信仰に厚く、禅密兼修の宗風であった。一方、印元に関する史料を集めた「正宗広智禅師語録」は雑多な感を与える史料であるが、他に見られぬ記載も含んでいる。
明使帰国前後の様子は、「雲門一曲」を中核とする多くの史料により明らかになる。「雲門一曲」については前々三十八の紹介(所報一五号)を参照されたい。
(目次一四頁、本文五七九頁、挿入図版四葉)
担当者 新田英治・村井章介・藤原良章・山家浩樹

『東京大学史料編纂所報』第22号 p.33