大日本古文書「幕末外国関係文書之四十一」

本冊には、万延元年七月朔日(一八六〇年八月一七日)から同年八月晦日(一八六〇年一〇月一三日)までの文書を収めた。この時期の重要な問題は次の二つである。
一つは、将軍徳川家茂と米・英・仏三国の公使との会見である。家茂は七月五日に米国弁理公使ハリスと、同月九日に英国特命全権公使オールコックと、同月二十一日に仏国代理公使ド・ベルクールと、いずれも江戸城で会見した。三国の公使は、それそれ自国の元首の書翰を家茂に奉呈し、日本との親睦が深まることを期待すると述べた。家茂とハリスとの会見が実現するまでには、その際の礼典のあり方をめぐり、何度も老中とハリスとの問でやりとりがあったが、結局、公使は大統領の名代だから将軍と対等であるというハリスの主張を老中がうけいれ、礼典もそれにふさわしいものとなった。七月三日、老中は英・仏両国公使に、将軍謁見の際の礼典はハリスの場合と同様にする旨を達し、翌四日、江戸在勤英国副領事代理ユースデンは、礼典の手続きの変更に満足していると外国奉行に書き送っている。
もう一つの問題は、条約締結をめぐるプロシャ使節との折衝である。プロシャ特派公使オイレンブルクは、七月十九日、品川に到着すると、翌二十日付で老中に、日本と修好通商条約を結ぶため全権として来たことを報じた。二十九日に老中安藤信睦を訪れ、ついで八月四日には外国奉行と会見している。この時、外国奉行は老中の書翰をオイレンブルクに渡した。その書翰の要旨は「五か国と通商を開始してから、必需品が海外へ流出し物価は高騰した。人心は外国を敵視している。やはり通商の拡大は徐々にしなければならない。よってベルギーとスイスの通商の要求は断った。ポルトガルとは旧交があるので、近日、条約を結んだところ、また物議をかもした。貴国の求めに応ずると、各国の求めを断りにくくなるので条約は締結できない」というものであった。
これに対しオイレンブルクは、八月二十八日付で老中に抗議の書翰を送り、プロシャと条約を結ぶべきことを力説した。この中でオイレンブルクは、老中との意見の対立点について次のように言及している。「日蘭和親条約副章第十一条に、日本政府は外国政府の条約締結の要求があれば、それに応ずると記してある。老中は、この条約は日蘭修好通商条約の締結によって廃止されたと述べているが、それは誤りで、そのような事実は存在しない」。ところで、ここで老中が廃止になったと主張したのは、日蘭和親条約附録(日蘭追加条約)のことであった。副章も附録も共にAdditionele
artikelenであり、翻訳の際どちらも附録と訳されたために論点がずれたのである(本所報所収の横山論文参照)。オイレンブルクと老中との折衝はこの後もつづき、プロシャとの修好通商条約の締結をみたのは、万延元年十二月十四日であった。
(例言一頁、邦文目次一三頁、同本文二三九頁、欧文目次五頁、同本文五一頁)
担当者 小野正雄・稲垣敏子・横山伊徳

『東京大学史料編纂所報』第22号 p.35*-36