大日本維新史料類纂之部「井伊家史料」十五

第十五巻は、(1)第十四巻迄に収集されなかった安政五年史料、(2)安政五年におこなわれた安政大獄吟味関係史料、(3)大獄の際関係者から幕府が押収した書状・日記等の諸史料、(4)安政五年の諸上書類、(5)長崎警備と参勤交代問題にかかわる佐賀本藩と三支藩との紛争関係史料を収めた。また補遺として�安政四年十一月十六日付井伊直弼宛長野主膳上書案(幕府・ハリス間交渉に対する彦根藩の採るべき方針を論じたもの)、�安政五年十月付前宇和島藩主伊達春山宛佐賀藩願書の二点を補った。
 (1)に関しては、二月十六日付で福井藩主松平慶永が実弟田安慶頼に出した書状が興味深い。慶永は将軍継嗣に一橋慶喜を強く勧めているが、慶頼はこの手紙を幕府に内報しているのである。また七月将軍家定が没した後、奥女中の処遇についての大奥上�宛大老達書や大奥風聞探索書などは、大奥に関する史料として注目すべきものであろう。
 (2)では、鵜飼吉左衛門、同幸吉、小林良典、岩本常介、池内大学、丹羽正庸などの吟味申口を収めたが、これらの中では、とりわけ梅田源次郎の、十月三日、同二十日、十一月七日付吟味申口が内容的に重要なものである。これら申口の中から、従来梅田の伝記の中でわかっていた以上の、彼の全国的で幅広い人脈が判明するとともに、彼の国事奔走が、ペリー来航後からではなく、弘化元年徳川斉昭処罰直後から開始されていたことが明かとなる。
 また第二二号「三条家家士飯泉喜内初筆一件ニ関係セル名前書抜」から、幕府の嫌疑が幕臣のどの部分にまでひろがっていたかを知ることが出来よう。
 更に、右の書抜には日下部伊三治宛先手与力芳賀栄之助書状写が別紙として添附されているが、この書状から下級幕臣の政治姿勢の一端が伺える。
 (3)で特に注目すべきものは、第二七号の水戸藩主徳川慶篤宛山本貞一郎上書案である。これまで山本は一橋派グループとして一括されてきたが、この史料から山本の立場は相当独自であったことが明らかとなる。この点では第二九号文書も併せ見るべきであろう。
 また第三三号宇和島藩若年寄吉見長左衛門自筆草稿によって、橋本左内を含む越前藩激派が、主君慶永の処罰直後挙兵論を唱え、山内豊信を勧誘した事実が判明する。
 (4)の諸上書もそれぞれ史料的価値の高いものであるが、第三五号陰士某上書からは、佐幕派知識人がどのように国学思想を咀嚼していたかが伺えるだろう。
 また第四一号の「浪人小沢新兵衛上書口上・上書目録」からは、地方で仕官せず、私塾を開いていた草莽儒者の率直な時務策がよくわかるとともに、彼の幕府への絶望感もその行間からにじみ出ている。
(目次七頁、本文三七六頁、図版一葉)
担当者 宮地正人・塚田孝・杉本史子

『東京大学史料編纂所報』第22号 p.34**-35