大日本史料第十一編之十八

本冊には、天正十三年(一五八五)八月一日より同年八月是月まで、ちょうど一ケ月間の史料を収載した。
 本冊における歴史的重要事項は、秀吉の全国統一事業が大きく前進したことである。前月より引き続いて行なわれていた四国の長宗我部征討作戦が完了し、四国への諸将の分封が実施された(六日条)。それに関連して、仙石秀久が讃岐の松王寺並びに地蔵院に対して禁制を下し(十日条)、小早川隆景は安芸厳島大願寺に、伊予新居郡の地を寄進している(八日条)。
 長宗我部征討に連動して行なわれたのは、北陸における佐々成政の征討である。秀吉は大田三楽斎への返書において、北国出兵の予定を報じているが(一日条)、四国の状況の帰趨を見極めた上で京都を出陣した(八日条)。織田信雄が成政に降伏を勧告した(五日条)こともあり、北陸では四国のような本格的戦闘は行なわれないまま、成政は秀吉に降り、ついで越中の国分けも行なわれた。成政征討と関連して実施された、金森長近による飛騨の三木自綱・秀綱父子の征討も、成政降伏の条に併載した。なお北国征討に参加した丹後宮津の細川忠興が発した家中に対する軍律は、行軍中や布陣時における詳細な注意点が述べられており、極めて興味深い史料である。
 地方における戦闘としては、島津氏の肥後での橋頭堡、花山城を阿蘇勢が攻略した花山の戦(十日条)、徳川勢の真田昌幸攻撃の前哨戦(二十六日条)があり、年次に疑問点が存するが、下野太平山における北条氏と皆川広照との戦い(二十日条)がある。
 中央の諸事項では、秀吉は、加藤嘉明及び脇坂安治に知行を給し(二十八日及び是月条)、仙洞御所作事用途料について観音寺賢珍に命じている(八日条)。また本願寺は、和泉貝塚より摂津中嶋に移転した(三十日条)。
 地方諸大名の施策としては、徳川家康の甲斐奉行衆による中尾郷軍役衆の点定(一日条)、吉川元春による出雲伊弉諾社の再造(二十七日条)などがある。
 本冊における死没者としては、黒田孝高の父小寺職隆(二十二日条)があり、死没年次の明確でない三木自綱・秀綱父子については、飛騨攻略の条(二十六日)に併せ収めた。
(目次七頁、本文四二二頁、欧文目次一頁、欧文本文一頁)
担当者 酒井信彦・久留島典子・山田邦明
欧文担当者 金井圓・五野井隆史

『東京大学史料編纂所報』第21号 p.39*