大日本史料第五編之二十七

本冊には、後深草天皇宝治2年(1248)10月より12月まで、および是歳の史料を収める。
院政を主導する後嵯峨上皇は、摂政藤原兼経の宇治別業に赴き、3日問にわたるもてなしを受けた(10月21日第1条)が、その留守の間、京都二条堀川に起こった火事は閑院内裏の内膳屋に及び、神代より伝わるという釜を損ずる(10月22日条)。
 南都興福寺では、前年11月、別当実信が寺僧所領の収公に抗議して辞職してより騒擾がやまず(12月28日条)、北嶺延暦寺では、青蓮院・梨本両門徒の確執が続いている上に、青蓮院門跡をめぐる慈源と入道道覚親王との相論がある(11月26日条)。さらに、行遍の東寺一長者就任に反発する高野山衆徒の騒擾も続く。この内、まず11月30日、青蓮院・梨本両門徒が後嵯峨上皇の院宣に従って和平を遂げる(同日第2条)。次に、南都の騒擾について、上皇は実信の別当還補によって静謐せしめんとして、藤原定嗣を実信の許に派遣(閏12月21日条)、閏12月21日付で実信還補の太政官牒が発給されることになる(同日条)。そして、年も押詰まった閏12月29日、行遍の東寺一長者を罷め、替えて実賢をこれに補し(同日第1条)、一方、青蓮院門跡については、道覚にこれを伝領せしむる旨の後嵯峨上皇の院宣が発給される(同日第2条)。さらに、太政大臣源通光の遺領相論を裁定する院宣も同日に発給され(同日第3条)、宝治2年の京の政界を揺るがせた諸懸案に一応の決着がつけられる。それらの懸案の処理がなお進行中であった最中、摂政兼経は職を弟兼平に譲ろうとして幕府に諮問する(12月2日条)が、幕府はこの問題への口入を避け、かえって徳政の興行を勧告する(12月20日第1条)。この間、幕府は地頭所務や雑人訴訟に関する撫民法ともいうべき内容の一連の法令を出している(11月23日、12月12日第2、20日第2、閏12月18日、23日の各条)が、あるいは京への徳政申し入れとの間に何らかの関連を想定しうるかもしれない。
 後に将軍として幕府に迎えられることになる宗尊親王はこの年7歳になり、佳例に従って読書始を行った(12月25日条)。
 死没者に、鎮西奉行大友親秀と安芸守護武田信光という幕府の重要人物2人がおり、その伝記史料を収めた(10月24日第3、12月5日第5の各条)。親秀の伝記史料によると、親秀の妻は、かつて太政大臣源通光の妻であったのが親秀に再嫁した者であるが、その所生の女子は後嵯峨上皇との間に斎宮�子内親王を儲けている。�子は『とはすかたり』や『増鏡』によって異母兄後深草上皇とのロマンスが知られる人物である。以上、本冊収載範囲から気づいた事件のいくつかを記したが、本冊で主に用いた記録は『葉黄記』と『岡屋関白記』である。『葉黄記』の記主藤原定嗣は10月29日の京官除目で執筆を勤め、かつ自身も権中納言に昇進したので、除目に至る経緯や定嗣自身の昇進に伴う拝賀や着陣の記事によって、同日条はかなり詳細なものになった。なお、11月4日条の検非違使庁始も当時検非違使別当を兼ねていた定嗣の権中納言昇進に伴う一連のものである。一方、幕府側の記録である『吾妻鏡』の記事はこの間きわめて簡略であり、前述の兼径辞意に関しての交渉についても全く記されていない。幕府側の記事が著しく少なくなったゆえんである。
(目次13頁、本文417頁、挿入図版1葉)
担当者 黒川高明・近藤成一

『東京大学史料編纂所報』第21号 p.38