大日本近世史料「近藤重蔵蝦夷地関係史料」二

本冊には、前冊にひきつづき、本所所蔵「近藤重蔵遺書(近藤重蔵関係資料)」のうち寛政十二年(一八○○)から文化四年(一八〇七)までの蝦夷地関係史料−用状草案・人別帳・帳簿・上申書草案・絵図等一八点(七冊・七綴・四枚・三通)を収めた。ただし、文化二年と同三年のものはない。寛政十二年閏四月、冬を東蝦夷地のサマニで越した近藤重蔵(諱守重、号正斎)は、その前々寛政十年に続いて再びエトロフ島に渡り、同島の「開発」に当った。一〜四・六号史料は前冊収載の「エトロフ会所日記」とともにこの時エトロフ島において作成されたものと思われ、当時の重蔵の蝦夷地政策の進め方についての考えや「開発」の実態を知る好材料である。
一号史料「エトロフ書」は、寛政十二年五月から六月にかけて、重蔵とその相役山田嘉充のもとから箱館の蝦夷地御用掛松平忠明らに宛てて出された用状の草案等を記した冊子で、島の状況を執告する一方、鯨漁誘致の利点・対アイヌ人政策・高田屋嘉兵衛の取立て希望等について触れている。
二号史料「エトロフ村々人別帳」は、同年五〜六月に実施されたエトロフ島の人別改めの結果をまとめたもの(享和元年までの書込みがある)で、体裁は前書や宗旨の記載がない点を除いて通常の人別帳に準じている。末尾の記載によれば、当時のエトロフ島の人口は男五三六人、女五八二人の計一一一八人であった。役附の記入(「乙名」「土産取」「小使」「会所附」「番人附」等)や「改俗」「改名」の記載、アイヌ語地名・人名の表記法(ア・ウ・工・ク・ツ・ユ・ヨを一部で小さく書く。また半濁点付のセとツを作字)等が興味をひく。ただ、この人別帳が重蔵の発意によるエトロフ島限りのものであるのか、あるいは東蝦夷地全体で幕命により作られたもののうちの一つであるのかは現在のところ特定できない。
三号史料は、重蔵が熱心に上申した鯨漁誘致に関して、必要な資材や人員を書上げたもの。四号史料は、エトロフ島に渡来したシモシリ島のアイヌ人イチヤンケムシら三人の取扱いについて上申したもので、重蔵は彼らがロシアの内偵やキリシタンである可能性を一応否定しながらも、なお「聞得ハ緩く内実ハ厳敷穿鏨之手当」をしたと述べている。六号史料は、エトロフ島シベトロにロシア人が建てていた十字架の絵図(現物は箱館へ送られた)である。続く享和元年・同二年にも重蔵は幕命で蝦夷地に赴いているが、史料は各一点が存するのみである(八・九号)。なお、同三年正月二十五日重蔵は小普請方に任じられて一旦蝦夷地開係の役目から離れた。また同年十二月二十二日には永々御日見得以上となっている。
翌文化元年十月、ロシア使節レザノフの長崎来航(九月〜)という情勢のもとで重蔵は老中戸田氏教に西蝦夷地・カラフトの上地を上申、また下問を受けて再上申を行った。この際の上申書草案が一〇〜一二号史料である。その中で重蔵は、カラフト方面においては日本から先手を打って国境をはっきりさせるべきことを強調し、同時にこの方面での清朝の脅威についても注意を喚起している。越えて文化四年、幕府は西蝦夷地の氷上地を決定したが、折から前年九月〜同年五月にかけてロシア船がカラフト・エトロフ島を襲撃する事件が発生し、その事後処理のため若年寄堀田正敦を首班とする巡見隊が派遣されることになった。この時重蔵も遠山景晋配下の一員として一行の中に加えられ、六月十五日江戸出立、箱館より田草川伝次郎・山田忠兵衛らとともに西蝦夷地を回ってソウヤに至り、また帰途はテシオ川・イシカリ川を踏査、同年十二月八日帰府した。
一三号史料「蝦夷地御用留」は、六月十五日から十二月廿六日までの関連書類・遠山景晋宛用状等の控であり、中に含まれる「日割書付」によって箱館からソウヤに至るまで(八月七日〜九月十九日)の重蔵の動きを知ることが出来る。一四号史料は巡見に参加した幕府役人の姓名書、一五号史料は六月七日から十月十七日の間の、蝦夷地踏査に関する重蔵個人の収支帳簿である。
〔付記〕一六号史料表題のうち「山田嘉充鯉兵衛」とあるのは「山田某忠兵衛」の誤りである。お詫びして訂正する。
(例言一頁、目次三頁、本文四〇一頁、図版二葉)
担当者 皆川完一・鈴木圭吾・鶴田啓

『東京大学史料編纂所報』第21号 p.42*-43