大日本近世史料「細川家史料十」

本冊には、前冊にひきつづき、寛永八年正月より、同九年末に至る二年間の、忠興宛忠利書状一六六通を収めた。このうち書状原本は二通のみで、その他は全て案文の留書から収載したものである。本冊に収載した留書の書名及び整理番号は次の通りである。
『三齋様へ御書之案文』寛永八年正月−十二月
(整理番号八−一−三五ノ一ノニ)
『三齋様江之御書御案文』寛永九年正月−十二月
(整理番号八−一−三五ノ一ノ三)
右の書状案を収載するにあたっては、必ずしも留書の記載順によらず、年月日の順に配列し、各冊ごとの整理番号は省略したこと、また出来るだけ原形を生かしながら翻刻したことは、前八・九巻の忠利書状案と同様である。本冊所収の忠利書状の時期は、忠興文書の第四巻及び第七巻補遺(第一七三九号〜第一八○○号)に当り、双方の書状に相応するものが多い、従って反復のうちに事情が鮮明となる。
寛永八.・九両年の間に発生した諸事件のうち、細川家にとっても最も重大であったのは、肥後国主加藤忠広の改易と、それにともなう忠利の転封であった。これらについては『所報』第九号「細川家史料四」に尽くされている。これにほぼ並行し、関心の強く持たれたのは、隣国筑前黒田忠之家中の内紛、いわゆる「黒田騒動」であるが、忠之の失態、召喚、寺入、家中の動揺、周囲への波紋、上方譜代衆の嘲笑、稲葉正勝等肥後への上使の「下々にては其日に男成らざる儀」との酷評が、不仲の忠利によって、小気味よく伝えられているが、この内紛は、公儀へ対しての慮外の儀にてはなしとして、表向には通報しないとする忠利の思考にあるように、大方は曖味ながら、公儀への謀反として処断された加藤忠広父子の改易とは異なり、忠利と相談した稲葉正勝の詳細な報告、老獪な竹中重義の扱いなどより、後の幕府の寛大な処分になったと思われるが、又一つには、九州に続いて起る動員に対する諸家中・下々の迷惑を慮ってのことかとも推量される。
寛永九年正月廿四日死に至る大御所秀忠の病死も様々な反響をよぶ大事件であった。忠利はこの病状を三齋に伝えんとして、他見を惧れ、刀にたとえんとしたが、三齋は合点し難いので、鷹か馬かの事にて知りたいとしたが、回虫を主因とするらしい難病に、次々と交替する侍医のうち、懇意な通仙院等の内報も直接であり、諸大名間の通報も公然のこととされたのであろう。末期の状は克明であり、暗号様の書状は一点も見られない。下々にては切り開いて捉り出すも可なりとされた皮下の虫もそのまゝに、肺を侵されたか、喀血もあり死に至る。廿四日忠利自筆切紙及び忠興返事自筆書入は、直接の説明はないが、あわただしいこの間の事情を物語る。
徳川忠長の改易、谷・蒲生・藤堂・黒田等諸家中の内紛や、加藤忠広の改易等の、幕藩制初期の軋轢は、天変地異に結びつけられ、何方ともなく陣道具がしきりに誂えられ、具足が無数に売れる噂となり、世上の不穏な空気を伝えている。
(例言二頁、目次一四頁、本文二七九頁、人名一覧一八頁、口絵一頁、折込図版一葉)
担当者 加藤秀幸・荒野泰典

『東京大学史料編纂所報』第21号 p.39**-40