日本関係海外史料「オランダ商館長日記」原文編之六

本冊は、オランダ商館長日記原文編の六冊目に当り、原文編之六(自寛永十八年九月、至寛永十九年閏九月 Orignal Text Selection I, Volume VI November 1,1641−October 29,1642)として、商館長ヤン・ファン・エルセラック(Jan van Elserack)の一六四一年十一月一日より一六四二年十月二十九日に至る、彼の第一回目の商館長就任から離任までの一年間の公務日記の翻刻である。また、附録として、エルセラックの前任者マクシミリアーン・ル・メール(Maximiliaen Le Maire)が離任に当ってエルセラックに与えた訓令(�)及び商館資産等引継目録(II)、総督アントニオ・ファン・ディーメン(Antonio van Diemen)から長崎に在る商館長エルセラック並びに江戸幕府年寄衆、長崎奉行に宛てた書翰計三通(III、IV、V)を収録してある。
 本冊が扱った一六四二年は、オランダ商館が長崎に移転した翌年に当たる。エルセラックの日記の記載は、前任者たちのそれに比して非常に簡素になっているのが特徴である。それは、幕府のキリスト教禁止と貿易統制という政策基調の下、その直轄地長崎において、オランダと日本の関係が迎えた新しい段階を反映している。これまでの商館長たちは、実に多様な経路から命令や情報を得、それを分析し幕府最上層の意向を判断し、更に煩雑な折衝を繰り返して自分たちの要求を伝える過程を日記に記してきた。しかし、長崎移転後の日本側の取扱事務は、大目付井上筑後守政重から馬場三郎左衛門利重と柘植平右衛門正時の二人の「知事」を経由する指揮系統に一本化され、迅速になる。この経路を通じての交渉を重ねるうちに、意志疎通も円滑さを増した。オランダ側は、以前に比べれば多分に強化された規制を受けつつも、それに甘んじている限りにおいて生命の安全と貿易の利益を保証するという日本側の基本姿勢を容認し、その枠組の中で行動せざるを得なくなる。かくて、新しい関係が確立し、商館の業務も慣行として日常化してゆくのである。
 一六四一年十一月六日長崎に入港したフライト船ザイエル号で、バタビア総督府は、「前皇帝のパス」すなわち慶長十四年七月二十五日付徳川家康朱印状を返送してきた。一六四〇年に当時の商館長カロン(François Caron)は、参府する際、牧野内匠頭信成から、オランダ人の利益を擁護する証拠書類としてその写しを提出するようにと好意的要請を受けたが、この朱印状は既に本国へ持ち帰られていた。エルセラックは、今回江戸で井上政重にこの朱印状を提示した。エルセラックは、一六四一年十二月四日に江戸への参府旅行に出発し、一六四二年三月十二日に長崎へ戻る。従前に比すれば異例ともいえる早さで一月二十二日には登城し、将軍家光の代理である松平伊豆守信綱、阿部豊後守忠秋、阿部対馬守重次の謁見を受けるなど、江戸での待遇は一応満足し得るものであった。
 日本国内での諸事件や社会情勢に関する記事の比重も低下しているが、この時期に、かつてオランダ人の常客であったような上方の豪商たちの何人かが相次いで倒産したことなどは、いわゆる鎖国政策が外国貿易に従事していた商人たちに与えた影響を示す興味深い記事といえよう。また、一六四二年八月、九月には、琉球の一島嶼で捕えられたイエズス会宣教師アントニオ・ルビノ(Antonio Rubino S.J. )の一行について詳細な記事があり、この潜入が幕府に与えた衝撃の大きさが窺える。
 海外の状況についての数少ない記述の中では、一六四二年九月五日、十一日に、エルセラックが、馬場三郎左衛門の質問に答え、ヨーロッパ各国の動向を報告していることが注目される。
 本冊の翻刻に用いた諸写本は、いずれもオランダ国立ハーグ中央文書館(Het Algemeen Rijksarchief, Den Haag)所蔵の原写本のマイクロフィルム複本である。本文の底本は、Dagh-Register des Comptoir Nanga[sackij] gehouden bij den E. Jan van Elserac[k, opper]coopman ende opperhooft over 's Compagnies omm[eslach] in Japan naer 't vertreck van den E. Maxi[miliaen] Le Maire,'t zedert primo november Ao. 164[1 tot] 29en. october Ao. 1642, dat naar Batavia ver[treckt], Anno 1642. (NEJ. No. 56; KA.11686)(本所マイクロフィルム六九九八−一−三−一二、同焼付本七五九八−二−一)である。これをA本とする。標題紙一葉、本文五八葉。一六四一年十一月一日の記載に始まり一六四二年十月二十九日の記載に至る。日本商館に控えとして保存されていた同時代の副本である。
 右のA本に対して、二種三部の写本が伝存する。それぞれをB本、C本、C'本とし、底本との校合に用いた。これらの写本はいずれも、商館長から総督に宛てた報告書の附属文書としてバタビアヘ送附され、更に本国へ送られたもので、一六四三年度の『到着文書集』(Overgecomen Brieven en Papieren uit Indië,Jaar 1643−iii, EEE−3(KA.1049,VOC.1140)に収められている。すなわち、
Daghregister des Comptoirs Nangasacqui van 1 Nov.1641 tot 29 Oct.1642.(本所マイクロフィルム六九九八−五−六、同焼付本七五九八−六〇−三八d)B本。本文四一葉。
このB本は、A本全文の写本で、表現上若干の異同が見られる。日本語の発音の表記はB本の方がより正確である。
Dachregister des Comptoirs Nangasacqui van 1 Nov. tot 26 Nov. 1641.(本所マイクロフィルム六九九八−五−六−三〇、同焼付本七五九八−六〇−三七c)C本。表題紙一葉、本文一四葉。
Dachregister des Comptoir Nangasacqui van 1 Nov. tot 26 Nov. 1641.(本所マイクロフィルム六九九八−五−六−三三、同焼付本七五九八−六〇−三七f)C'本。表題紙一葉、本文五葉。
 C本、C'本はともに、一六四一年十一月一日から二十六日までの記載を収録した写本である。C本は、一六四一年十一月二十六日にバタビアヘ向けて出航した便船に託されたが、同船が悪天候のため同月二十八日に一旦長崎へ引き返して来たので、C本作成後に長崎奉行から受けた命令を補足したC'本が新たに作成され、ともに送られたのである。
 附録に収録した五通の文書の底本は、左の通りである。
I. Copie Instructie door den E. Maximiliaen Le Maire aen den E. Johan van Elserack op sijn vertreck naer Batavia gedaen in dato pmo. november Ao. 1641.(本所マイクロフィルム六九九八−五−六−三六、同焼付本 七五九八−六〇−三七i)附録I。表題紙一葉、本文二葉。
II. Copie transpoort [des Compagnies effecten] door den E. Maximiliaen Le Maire aen den E. Johan van Elserack, oppercoopman en opperhoofd op sijn vertreck, gedaen in
't Compt. Nangasacq.,Nov. le. 1641.(本所マイクロフィルム六九九八−五−六−三五、同焼付本七五九八−六〇−三七h)附録II。表題紙一葉、本文一葉。
 附録I、IIは、エルセラックの一六四一年十一月二日付のバタビア向け書翰の附録として準備された写本であり、前述の『到着文書集』に収められている。
III, IV, and V. Missiven van den Gouverneur-Generael Antonio van Diemen, enz., aen den oppercoopman Jan van Elserack, Rijcxraden van Japan ende Gouverneur van Nangasaque. Batavia, adij 28 Junij 1642. Batavia's Uitgaand Briefboek, 1641-1642, KA. 769, VOC. 866(本所マイクロフィルム六九九八−二三−三)附録III、IV、V。
 このうち、附録�、�は、長崎において作成された「受発信書翰控」(Affgaande Brieven van Anno 1641 en 1642, KA. 11723, NFJ. 279)に収められた写本と校合してある。
 なお、本冊では、本文並びに附録一、二の翻刻を主として加藤が、附録三、四、五の翻刻を主として金井がそれぞれ担当し、加藤が全体の校訂に当った。巻頭の解説は加藤が作成し金井がこれを英訳した。巻末の索引は、松井が担当した。なお、本冊の編輯、校正の過程で、非常勤職員大橋明子・丸山みほ・高橋典子の協力を得た。
(解説・例言一四頁、目次二頁、図版三、本文二一四頁、索引二一頁)
担当者 加藤榮一・金井圓・松井洋子

『東京大学史料編纂所報』第21号 p.44**-46