大日本史料第十編之十八

本冊には正親町天皇天正元年九月より同年十一月までの史料を収める。
 本年八月に宿敵の越前朝倉・近江浅井両氏を滅ぼしたばかりの織田信長の活動はあいかわらず活発である。九月初頭には浅井討滅の余勢をかって近江の六角承禎父子を攻め(九月四日条)、さらに北伊勢の一向一揆制圧に赴く(九月二十四日条)。この伊勢出兵の途上で同国大湊の惣中より軍船を徴用している状況が大湊側の史料によって詳しく知られ興味深い(九月二十四日第一条、なお十月二十四日第一条・同二十五日第一条にも大湊と信長の接触がみられる)。いったん岐阜へ帰陣した信長は、十一月十日に再び上洛し、兵を遣して、本年七月以来離叛して抵抗を続ける前将軍足利義昭の党三好義継を十一月十六日河内若江城に滅亡させる。こうした信長の攻勢を逃れて義昭は紀伊へ奔った(十一月五日条)。
 信長は活発な軍事活動と並行して新たに獲得した分国の経営も進めてゆく。九月四日第三条・九月六日条・十月八日第二条・十月是月第一条と、豊富にみられる越前関係の信長および彼の家臣たちの安堵状類は、その進展を物語っていよう。
 このような信長の勢力の急速な拡大により、西国の雄毛利氏と信長の関係が次の政治史の焦点となってくる。すぐには衝突することを好まない両者の間で、義昭の処遇などをめぐり緊密な外交折衝が交わされ、但馬を織田方が制圧するかわりに因幡は毛利方が押さえるという合意が成立(九月七日第一条)。毛利方の吉川元春は兵を率いて因幡に入り、尼子勝久の党山名豊国の拠る鳥取城を降した(十月二十四日第二条)。
 一方武田信玄が歿した後さかんに三河の武田方への進攻を続けていた徳川家康は、九月八日に長篠城の攻略に成功する。対する武田勝頼も遠江まで出陣したが諏訪原に築城しただけで大した戦果もなく帰国することとなる(十一月四日第二条)。ちなみに収納期を迎えて武田氏の民政史料は一段と量を増している(九月三日条・九月五日第二条・九月二十一日第三条・九月二十三日第二条・十月一日第二条・十月五日条・十月六日条・十月十四日条・十月二十一日条・十一月十四日第二条・十一月十九日条)。
 その他、地方の動きでは、土佐の長宗我部元親の勢力が伸長して国司一条兼定を退陣に追いこむにいたったことが注目されよう(九月十六日条)。
 なお、歿日に事蹟を収載したものに下野の皆川俊宗(九月二十一日第四条)・阿波の足利義冬(十月八日第三条)・薩摩の島津勝久(十月十五日第三条、流寓先の豊後にて歿する)・河内の三好義継(十一月十六日第二条)がある。
 また、永島福太郎氏のご好意に依り、巻末補遺に「古渓和尚入寺奉加帳」を収録することができた。記して感謝の意を表する。
(目次一六頁、本文三九六頁、補遺九頁、挿入図版一葉)
担当者 染谷光廣・山室恭子

『東京大学史料編纂所報』第20号 p.60*