大日本古記録「民經記」四

本冊には、寛喜三年八月より貞永元年二月迄の日記と紙背文書を収めた。記主藤原経光の二十歳と二十一歳の時に当る。この期間の経光は正五位下、治部権少輔、蔵人、東宮権大進であり、特に五位蔵人として数多くの公事を奉行して多忙な日々を過した。
本日記のうち寛喜三年の記は、本刊本の第二冊から始まり本冊で終るが、その間の諸公事奉行に関する記事は多種かつ多量である。とりわけ、寛喜三年十月に行なわれた伊勢公卿勅使発遣の関連記事は、駅家の設定、勅使の供給、神宝作製やその他のさまざまな事柄に渉る、実に詳細きわまるものである。
 紙背文書には書状が多く、すべての文書の年紀を確定することは困難である。しかし、その内容、日付、人名と日記本文との照応などにより、寛喜三年のものと推定できる文書が少なからず含まれており、本冊に関しては(推定できる限りでは)、表の日次記よりおよそ五ケ月前後遡る時点の文書が多い、との判断が得られる。判定困難の文書の中にも、この傾向に従うものが多く存するであろうと思われる。
 ただし、全く異なる時期のものがある。それは承久二年のものと推定される文書群である。その中には造内裏役に関連することが明白な文書がある。この文書群の中には、充所に「右中弁殿」と記されたものがある。この右中弁は、経光の父頼資に比定される。頼資は寛喜三、貞永元年当時健在で、権中納言であった。父親の手許に留められた文書が、約十年の後に経光に与えられて日記の料紙となったのであろう。
(例言二頁、目次一頁、本文二四七頁、挿入図版一葉、岩波書店発行)
担当者 石田祐一

『東京大学史料編纂所報』第20号 p.63*