大日本史料第一編之十五

本冊は、十世紀のなかごろ、すなわち平安時代なかばの、円融天皇の天延二年四月から同天皇の貞元元年六月までの史料を収めている。この時期は、天禄三年十一月一日に摂政藤原伊尹が薨じ、その弟藤原兼通が弟の藤原兼家を排して、天延二年三月二十六日に関白に就任した直後からはじまる。この間の史料は、根幹となる記録たる親信卿記が天延二年十二月を以て終っているために、天延三年以後の記事は隔靴掻痒の憾があることを免れがたい。
 本冊のうちで、もっとも重要と思われる記事は、貞元元年五月十一日の内裏焼亡の条であろう。仁寿殿より出火したこの火災は、平安遷都後最初の天徳四年九月二十三日以来のもので、天皇は職曹司に遷御せられ、翌十二日には警固があり、十四日には造宮・遷宮の日時勘申がおこなわれ、二十日には神祇官と陰陽寮に内裏焼亡のト占をおこなわしめ、二十三日には内裏焼亡によって大祓がおこなわれ、六月九日には内裏焼亡によって服御常膳を減じ、調庸未進・半〓を免じている。
 つぎに挙げるべきは、日食および天変に関する記事であろう。天延三年六月二十二日に彗星が出現し、二十三日には陰陽寮が来月一日の日食について奏上し、二十六日には主税頭中原以忠が天変勘文を上った。七月一日には皆既食が見られ、この日、日食によって大赦がおこなわれた。ついで、同月十二日には日食・天変によって仁王会がおこなわれ、翌十三日には天変によって相撲節が停止され、八月一日・九日には日食のために七大寺御読経・十三社奉幣がおこなわれ、同月二十七日には日食によって流人の召還がおこなわれた。
 そのほかの、おもな記事をあげると、祇園杜関係の記事が数条見える。天延二年五月七日には、祇園観慶寺を延暦寺の別院とした。観慶寺はもと興福寺の末寺であった。観慶寺の別当良算が、延暦寺末の蓮花寺の紅葉を折ろうとしたことから、延暦寺・興福寺の争いとなったが、良源の圧力によって延暦寺の別院となった、という今昔物語の説話を引用している。この条は天延二年三月・同三年・天元二年などとする説があるが、日本紀略によって本条に掲げた。ついで、天延二年六月十四日には、始めて御霊会がおこなわれた。このときに、旅所の敷地が寄進された。翌三年六月十五日には、前年秋の疱瘡御悩のさいの御願の御報賽のために、祗園社に走馬・勅楽を奉ったことが見えている。
 また、康保元年三月十五日に、大学寮北堂学生等が、比叡山西坂本に於いて、法華経を講じ経中の句を題として詩歌を詠ずるために始めた勧学会に関する記事が見られる。すなわち、勧学会は以来親林寺若しくは月林寺に於いて、三月および九月の十五日におこなわれていた。しかし、草創以来十一年を経過しても定まった会処をもたなかったために、親林・月林両寺に故障があったときには、その会場にも困窮する有様であった。そこで、天延二年八月十日に、勧学会所は日向守橘倚平等に牒して、会場にあつべき仏堂建立の資を募った。そのときの勧学会所知識文および勧学会所牒を、本朝文粋によって掲載している。しかして、この知識文および牒は慶滋保胤の作にかかるものである。なお、文人たる倚平の事蹟をこの日の条に合叙している。
 つぎに、本冊に於いて、その死去の日に事蹟を収載したもののうち、おもなものを挙げれば、次の如くである。天延二年四月五日に、中納言藤原朝成が仏性院に薨じた。仏性院は彼が比叡山西麓に創めた寺であることは、引用した本朝文粋によって明らかである。彼は藤原伊尹と蔵人頭または参議を競望して敗れ、生霊が伊尹にたたった、といわれる人物である。笙の名人でもあり、また大食の人といわれ、音楽のうえでは村上天皇の信任を得ていた。その第宅は三条西洞院にあって、鬼殿と呼ばれていた。
 天禄三年十一月一日に薨じた藤原伊尹の子同挙賢・義孝の兄弟が、天延二年九月十六日同じ日の中に相ついで没した。二人は前少将・後少将また朝少将・夕少将とも呼ばれ、両名の死去は前掲の朝成の物怪によるといわれている。弟の義孝は父伊尹の死後桃園第を伝領したが、その子の行成は、義孝の死後は外祖父源保光に養われたものである。義孝は道心者にして、方便品を誦しながら没したといわれるほどで、文才もあり、且つ歌人としても有名で、義孝朝臣集はその家集である。本条には義孝朝臣集を図書寮本以下数本をもって校合して引載している。
 天延三年三月二十九日には、尚侍藤原登子が薨じている。登子は、藤原師輔の女で、村上天皇の中宮藤原安子の妹である。康保元年四月二十九日に安子が崩ずると、村上天皇の召しによって入内して、登花殿に住して君寵を蒙った。栄花物語は、村上天皇が登子を寵遇するあまり政務が擁滞した、とまで記している。同天皇の崩後は、藤原道綱母の第内に退出したため、これ以後、道綱母との交渉も見える。
 貞元元年六月十四日には、代明親王の王子で、枇杷大納言といわれた権大納言源延光が薨じている。幼にして母をうしない、藤原定方の家で成人したもので、村上天皇の信任を得、同天皇崩後喪服を脱がなかった、といわれており、故実の一流を形成していると見るべき史料が収められている。
 また、挿入図版として、京都市青蓮院所蔵の沙弥成典戒牒がある。成典が天延二年閏十月二十一日に、延暦寺戒壇院に於いて菩薩別解脱戒を受けたときのもので、天台座主良源等の自署が見える。
(目次二八頁、本文四三〇頁)
担当者 桃裕行・林幹弥・桑山浩然

『東京大学史料編纂所報』第2号 p.38-39