大日本古文書「幕末外国関係文書附録之七」

本巻の内容は、村垣淡路守範正公務日記・同附録に二大別される。
一、公務日記について
今回は、村垣範正公務日記第一六・一七の両冊が公刊された。所収の年代は、第一六冊が安政六年五月朔日より八月晦日まで、第一七冊が同年九月朔日より万延元年正月一八日までである。
時期的にみて、これは修好通商条約による開港前後に当っており(開港は安政六年六月二日)、また修好通商条約批准書交換のための遣米使節の出発準備期に当っている。(万延元年正月一八日に品川を出発、範正の副使任命は安政六年九月一三日)日記は、この開港・遣米使節という外交上二つの重大問題を中心に展開されているから、この二点に焦点をおいて紹介することとする。
開港については、これに関する幕府主要指令が日記に忠実に写されており、これは本篇の幕末外国関係文書と比較することができる。それと同時に、これらの指令が形成される過程に関する記事が、簡潔ではあるが随所に記されている。一例として貿易開始直後、わが金貨が濫出されるに至ったが、一分銀三箇と洋銀一ドルとの引替率決定から、金貨三両三分に引上が決定されるに至るまでの一連の通貨政策の変化をとらえることが出来る。第三に、開港をめぐる日毎の個別的な諸事清が記録されている点が興味深く、各国公館の整備状況や、外国船艦の詳細な出入港状況等が記されている。
遣米使節の出発準備について。われわれは、本篇において、かなり詳細にその状況を把握できるが、日記では範正が副使に任命された九月一三日から出発の正月一八日まで約四ケ月における、さらに詳細な準備内容が記録されている。例えば、遣米使節手当金十ケ月分二千両が三井より持来られたこと、当初別艦に予定された観光丸が米領事の勧告で咸臨丸に変更されたこと等であり、本篇を補う上で非常に有用である。また、遣米使節任命に伴なう、範正自身の公的動静を知ることが出来る。
二、公務日記附録について
範正は公務日記の外、同附録三冊を記している。(これとは別に、渡米中の記録として、渡米日記二冊を遺している。)本書には、附録三冊を収録した。附録第一冊の所収時期は、安政元年三月二七日より二年二月一一日まで、第二冊は三年一〇月一日より五年九月二〇日まで、第三冊は六年正月元日より、明治元年正月までである。
その内容は、主として彼がこの期間行った三回にわたる蝦夷・北蝦夷地巡見行についての個人的な記録であり、自作の和歌および写生画を豊富に交えて、観察や感想を綴っており、先に公刊された同時期の公務日記をさらに補う有用な記録と言える。
まず第一冊は、嘉永七年三月より、同年一〇月までに行われた蝦夷・北蝦夷地巡見についてであり、「道の枝折」の表題が附されている。この巡見には、堀利煕が同行した。これについで、「下田紀行」が収められ、範正がロシア便節プチャーチン応接委員として、安政元年一〇月より一二月で、下田に派遣された期間の記録が載せられ、最後に、安政三年三月より翌月に行われた、東海道主要河川巡察の際の記録がある、附録第二冊は、「千しまの枝折」の表題のもとに、安政三年七月箱館奉行に任命され、任地に向け出発、同四・五年箱館在勤、五年四月同地を出発、蝦夷・北蝦夷地を巡見して同年九月江戸に帰着するまでの記録を収めている。第三冊は、安政六年外国奉行就任より、明治元年隠居するまでの長期間にわたるが、本冊は量的に内容的に乏しいものである。主内容は、文久元年に行った蝦夷地巡見についての「辛酉紀行」である。これ以降は、断片的に、各年の回想が和歌で述べられているに止まっている。
本巻の出版は、小西四郎・多田実・稲垣敏子が担当した。
(目次一頁、本文五七七頁)

『東京大学史料編纂所報』第2号 p.41*-42