大日本維新史料類纂之部「井伊家史料五」

本冊には、安政四年正月より同五年二月に至る間の史料を収める。
 本冊の前半は、前冊から散見してきた越前湖北間の運河開鑿が重大問題となって、史料の大部分を占めている。すなわち、山道を一部修理し、在来の河川を開鑿し、敦賀より大浦および塩津を結ぶ新規通船路の計画で、これは湖上権の独占を主張する彦根藩の容認し得ぬところであった。新規通船路による北国米の流入は、大津に米蔵を有する彦根藩にとって、一大打撃であった。彦根藩はこの経済的理由を措いて、新規通船路をもって、彦根城拝領の東照宮の深密な趣意に反し、かつ彦根藩に命ぜられた京都守護にかかわるとの理由を表面に押し立て、あわせて北国街道筋が潤助を失い、領分浦々の備舟永続方に支障があるとして、極力反対する。彦根藩の京都守護に関し、同藩の京都における陣屋地の問題がこれにからんで、事件はさらに複雑化する。これが史料としては、井伊直弼ないし彦根藩が老中に宛てた正式の願書(第二・三・四号、第七号別紙)や、直弼が所司代脇坂安宅に宛てた書状によって見ることができる(第一四・二一・五五号)。また問題の推移は、城使が在藩側役に宛てた多くの用状で知られる。しかし興味を覚えるのは、その裏面工作の史料で、直弼が老中阿部正弘に宛てた書状(第六号)、老中堀田正睦に宛てた書状(第二二・三一・三二号)、あるいは勘定奉行石谷穆清に宛てた書状(第一五・三九号)である。とくに直弼と同じ溜間席から老中に推した堀田閣老宛ておよび井伊家とは昵懇の間柄にある石谷宛てのものには、直弼の忌憚のない意見が述べられており、石谷もこれに答えて、運河開鑿に関係した人物に月旦を加え(第二四・三〇・五三・六七・七八号)、小浜藩主酒井忠義を油断ならぬ人物としている。また直弼の謀臣長野主膳も入京し、九条家家士島田左近を通じ、関白九条尚忠に運動している(第三三・三五・四一号参看)。
 本冊の冒頭から見える彦根藩の運河開鑿反対運動は、直弼の安政四年八月の出府まで持ち越されるが、結局はこれが許可され、同年十二月頃完成して運送が開始され、彦根藩の敗北に終る。このことは、すでに城使が在藩側役に宛てた用状で予測されるところであるが(第七九号)、参考として掲げた安政六年の彦根藩届書で明瞭である(第五号)。運河の規模は、近江 大浦村 塩津浜村越前敦賀間新道法書附で想像することができる(第一〇二号)。この運河開鑿問題で特筆すべきことは、運河開鑿の賛否をめぐって二分された勘定奉行はじめ幕府有司で、すでにこの頃から、条約調印・将軍継嗣の二問題を機として判然と分れた南紀派・一橋派の対立が見られることである。安政大獄で志士の逮捕に活躍した京都町奉行与力渡辺金三郎も、運河開鑿の情報を長野主膳に送っている(第一〇一号)。
 本冊の後半は、米国総領事ハリスの上府および条約調印問題が史料の大部分を占める。直弼の出府前は、ハリスの動静を告げるにとどまっていた情報も、その出府を迎えて、溜間席諸侯の意見は次第に直弼の意見に左右されてくる。出府前にあっては、前水戸藩主徳川斉昭が関白九条尚忠に宛てた上書から、ハリスの上府に反対する斉昭の意見が知られ(第一二一号)、高松藩主松平頼胤・頼聰父子、あるいは元表坊主高橋栄徳が直弼に宛てた書状から、直弼の出府を鶴首して待つ同席諸侯の様子が窺われる(第一一二・一一五・一一六号)。直弼の出府後、在府溜間席諸侯は老中に宛てて上書を呈するが、そこに述べられた本邦官人の駐剳を条件とする開国説が、直弼の上書案および上書覚書によって、彼自身の意見に基づくものであることが知られる(第一五一号)。直弼の意向は、長野主膳を通じて九条家家士島田左近に伝えられており(第一四六号)、島田もまたこれに応えている(第一五五号)。条約調印問題に関する彦根藩の京都入説である。また二条家諸大夫津幡陸奥守も長野に書状を送っており(第一四一・一四七・一五二号)、書中直弼の大老就職の風説、あるいは徳川斉昭のハリス対策を憂えているあたり、注目すべき史料である。ハリスに対する彦根藩内の意見としては、三浦内膳らの上書があり(第一〇〇・一四九号)、幕府部内、とくに軽輩の意見は、小人目付・数寄屋坊主頭が直弼に宛てた上書によって知ることができる(第一三二・一四四・一五三号)。
 安政五年正月二十一日、堀田閣老は条約調印の勅許を奏請するために上京の途につくが、その直前に直弼が閣老に送った建議書は、開港後の具体策を伝えている(第一七二号)。主命を帯び、堀田閣老の上京に先だって入京した長野主膳と、在府側役宇津木六之丞との間に取り交された約二十通にのぼる往復書状は、彦根藩の活〓な京都入説を物語っている。宇津木が堀田閣老に随行して上京中の勘定奉行川路聖謨を目して、運河開鑿問題とも関連し、油断なり難き人物と長野に報じているのも、先に指摘した条約調印・将軍継嗣の二問題に端を発する、直弼反対派の一人として注目すべきである(第一九一号)。また後者の問題については、福井藩主松平慶永の老中松平忠固への口上控書で触れている(第一七八号)。この他、重要な史料としては、幕府勘定所勝手方勘定帳抜書があげられる(第一六八号)。これは「吹塵録」にも見られない史料で、幕府財政史料として注目すべきものである。
 なお巻頭に、安政四年正月二十日、井伊直弼が堀田正睦に宛てた書状案を挿入写真として載せている。
(目次三〇頁、本文四八七頁)
担当者 吉田常吉・山口啓二・小野正雄

『東京大学史料編纂所報』第2号 p.47*-48