大日本古記録「後愚昧記」二

本冊には、応安四年より永和四年にいたる日次記と、その紙背文書を収めた。
記主三条公忠は、四十八歳より五十五歳の間で、すでに内大臣を辞しており、子息実冬が、応安七年正月に去十二月三十日付で正三位から従二位に、永和元年二月に二十二歳で左中将から権中納言へと昇進した。(但しその永和元年の日次記は欠けている。)また息女厳子が、応安四年、践祚する後円融天皇の上�女房として、二十一歳で宮仕えを始め、永和三年六月二十六日皇子を出産した。のちの後小松天皇である。宮仕えから皇子出産にいたる経過のすべては、三条家の立場をさまざまの角度から照らし出して興味深く、公忠はまたこの厳子を通じても朝廷内の様子を知るようになったのである。
本冊の編纂にあたり、特に留意したのは、後愚昧記中の日次記とそれ以外の文書・別記等との関連付けである。この点についての公忠自身の方針は、大きく分けて二通りあったと考えられる。ひとつは、日次記の方に、関連文書を「在別」としたり、「節会文書」「諸人諮問(文書)」「御八講文書」「平座文書」「改元文書」などに「具」えたとしたりする方法で、日次記とは別に、諮問の相手毎にか、主題別か等で整理したのである。この方法は現存する後愚昧記のほぼ全期間に及んでおり、記主の区分を生かすため、刊行にあたり日次記とそれ以外のものを別扱いにしてきた。
もうひとつは、日次記の本文に「継之」とするなどして、関連文書等を継入れていく方法である、文書の保存と詳述の手間を省くことの二重の意味があったと思われる。ところがこれが肥大化した場合は、妙なことになってしまう。それが本冊の部分で問題となった。
応安四年五月十九日条は、多くの写本では、石清水八幡触穢事件にかかわる尨大な記録と文書の写しを伴っている。その附属文書類を重視すれば、別記と称してさしつかえないようなものであり、現に三条西実隆はこれを「別記」と呼んでいる。しかし五月十九日条には、「今日於新院殿上、八幡宮触穢事、有諸卿評定、参仕人々并定詞継奥、後日尋取継之、」と明記してあって、この附属文書類の全部かどうかは分らないが少くともかなりの部分が、直接日次記に継がれていたことは間違いない。日次記に継ぐことで、その簡単な本文の内容を補っていたのである。
応安七年二月の後光厳上皇の葬礼に関する、三条実音の記録や上乗院経深の記録なども、別記というべきだが、「後々相尋帥卿之処、如此注送之、」とあるのによれば、すくなくとも前者は、日記の内容を補足するため公忠自身が継入れたと思われる。
さらに永和二年記になると、日次記の本文が急激に簡略化してしまい、そのかわり日次記の巻頭と巻末部分に、この年の重要な内容を含む多くの文書類が、やや乱雑に編入されている。この文書類と日次記本文とは、関連する場合もしない場合もあるが、日次記の本文には、「在別」とも「継之」とも記入せず、記主の意図は確かめようがない。ただ、永和二年記の特徴は、前年の永和元年に子息実冬が権中納言となったことなどに関連して、記主の日記を書く態度の変化も想定できる。
以上のような附属文書類については、日次記との関連付けや配列が、当初どうなっていたか必らずしも明らかでないが、そこには後愚昧記の全体像にかかわる微妙な問題があり、それが個々の部分の解釈にかかわる可能性もある。その意味で、原本の初源形態がわからぬまでも、目下の原本・写本等の状態からさかのぼれる限りの古い姿を留めておく必要があると考えた。そこで、応安四年・同七年・永和二年の底本については、それぞれ附属文書等を含めた収録の範囲と配列を、その面で古い姿を留めていると考えられる写本によって定め(原本の方がバラバラになっている)、原本や部分的な善本を該当部分にはめこむようにしたのである。
口絵には、原本から、幕府が後円融天皇の即位大礼に出仕するそれぞれの公卿に助成した記事(応安七年十二月二十一日条)と、大和猿楽の児童であった世阿弥が足利義満に寵愛された著名な記事(永和四年六月七日条)とを掲げた。洞院公定の尊卑分脈編著にかかわる書状(永和二年記附載文書)については、次号所収第一九八回研究発表会の益田宗報告を参照されたい。ちなみに二〇二頁六行目「相▲備事」は「相○漏事」の、二〇三頁四行目の「▲委細」は「○巨細」の誤りなので訂正したい。
また、宮内庁書陵部より、本冊刊行後同部所蔵の壬生家文書(「壬生家蔵消息」二巻)のうちに、後愚昧記の原本の一部が含まれていることを教えていただいた。既刊分では、写本を以て底本としているが、第一冊一八九〜一九〇頁の正月四日付三条実継書状並に三条公忠返状の趣旨、本冊では、二〇一頁の六月三日付後円融天皇綸旨、同二三八〜九頁の三条公忠書状並に三条実継勘返であり、補訂すべき点がある。
(例言二頁、目次一頁、本文二八一頁、挿入図版二葉、岩波書店発行)
担当者 菅原昭英

『東京大学史料編纂所報』第19号 p.55***-57