大日本近世史料「近藤重蔵蝦夷地関係史料」一

近藤重蔵(諱守重、号正斎、一七七一〜一八二九)は蝦夷地を探検した幕吏として、また地理学者、書誌学者として知られている。
 本所所蔵の「近藤重蔵遺書(近藤重蔵関係資料)」は昭和八年に購入したもので、数百点に及ぶ蝦夷地関係史料、学芸関係史料は重蔵の多彩な活動状況を伝えている。
そのうち蝦夷地関係史料は、書状、上申書等の草案、覚帳、帳簿類、拓本、絵図等多様であり、寛政〜文化年間の幕府の蝦夷地政策に直接関係する貴重な史料である。いまこれを「近藤重蔵蝦夷地関係史料」と題し、三冊に収めて刊行する。
本冊には、寛政九年から同十二年に至る史料を、年代順に番号を付して収録した。
先手与力の家に生れた重蔵は、長崎奉行手附出役をつとめた後、寛政九年(一七九七)支配勘定となり、寛政十年から文化四年(一八〇七)に至る間、蝦夷地政策と関わることになった。
寛政十年幕府は、目付渡辺久蔵胤、使番大河内善兵衛政寿、勘定吟味役三橋藤右衛門成方以下一八○余名の巡見隊を蝦夷地へ派遣した。これは蝦夷地へのロシア人の進出、イギリス人の沿海測量等差し迫った状勢に対処するためのものである。この時、重蔵は大河内政寿の麾下としてこれに加えられたのである。彼は前年、海防問題、蝦夷地問題に関する建言書を提出したが、一・二号史料は、その建言書の草案と思われる。六号史料は重蔵が松前に於いて、巡見の道順を三橋成方に提出した口上覚である。七月下旬クナシリ島からエトロフ島に渡り、「大日本恵土呂府」の標柱をタンネモイに立てて戻り、八月には各方面から蒐集した情報をもとに多数の上申書を作成した。五号史料「覚帳」には、その草案類が記されている。九月、アツケシに至り、先年最上徳内の建立した厚岸神社を修復する。奉納した神名額・願文等の拓本と、ルベシベツ・ビタタヌンケ間に新道を開いた際に立てた立札の拓本が残されており、これらを写真版で収録した。普請役最上徳内は、天明年間から五度蝦夷地踏査の経験者で、重蔵の随員を命ぜられ、その片腕となって働くが、重蔵に宛てた状況報告や進言を記した書簡一一通は一綴(九号史料)として残されている。寛政十年の蝦夷地巡見入用の勘定帳は、渡辺胤・大河内政寿・三橋成方の連名で作成された。その写が一〇号史料である。重蔵はこの年エトモに越年し、更に調査を進めようとしていたが江戸へ召喚される。
寛政十一年一月幕府は東蝦夷地並びに附属諸島を七ヵ年間、直轄地とすることになった。重蔵は蝦夷地御用を命ぜられ、勘定に昇進し、三月二十日蝦夷地へ出発する。一一・一二・一三・一六号の上申書草案には幕府直轄地となった東蝦夷地の状況と、これに対する意見が述べられている。一七号史料はウルップ島に逗留するロシア人と、千島列島についての状況報告である。この年、エトロフ渡海が見合せとなったことは一五号史料(松平忠明宛書状草案)によって明らかである。この年はサマニで越年した。
寛政十二年四月、高田屋嘉兵衛の協力を得てエトロフ島に渡り、その開発に当る(一九号史料、松平忠明宛書状)。二四号史料「エトロフ会所日記」は、その状況を伝えている。この時作成した「エトロフ村々人別帳」は第二冊に収録する。なお共に越年した寄合村上三郎右衛門常福を非難する上申書草案(二〇・二一・二二号史料)は吏員間の対立を伝えていて興味深い。
(例言三頁、目次四頁、本文三五六頁、口絵四頁)
担当者 皆川完一・山口静子・鈴木圭吾

『東京大学史料編纂所報』第19号 p.54*-55