大日本近世史料「細川家史料」九

本冊には、元和八年初頭から寛永七年末までの、忠興宛忠利書状三二六通を収めた。このうち書状原本が一六通、写又は案文が六通であり、その他は総て案文の留書から収載したものである。一六通の原本のうち一五通に三斎(忠興)の自筆或いは佑筆による書入の返事があり、これらが細川家に残された理由を推定させる。本冊収載の留書の書名および整理番号はつぎのとおりである。
『宗立様御書案文』元和七年十一月−同八年十二月(整理番号四−二−一二六)
『三齋様御書案文』元和九・十年、寛永元・二・三・四・五・六年六月迄(整理番号四−二−一〇三ノ一)
『三齋様江御書案文』寛永六年七月−同七年(整理番号八−一−三五ノ一ノ一)
右の書状案の収載にあたっては、かならずしも留書の記載順によらず、年月日の順に配列し、各冊ごとの整理番号は省略したこと、またできるだけ原形を生かしながら翻刻したことは、前八巻の忠利書状案の場合と同様である。
本冊所収の忠利書状(案)の時期は、忠興文書の第二・三巻に当り、双方の書状に対応するものが多い。たとえば、忠興文書第二巻の元和八年二月十七日書状三通(三三一・三三二・三三三−文書番号、以下同じ)は、本冊冒頭の正月五日(七九)・正月十七日(八〇)・正月廿五日(八一)の忠利書状(案)に答えたものであり、三月六日書状(案)(八六)は、さらに上記三通の忠興書状に答えたものである。これらの関係をもうすこし詳しく検討してみると、忠興書状三三三は正月五日・同十七日の忠利書状(案)に一括して答えたものであり、三三一・三三二が正月廿五日の忠利書状(案)に答えたものであることがわかる。また、三三二は幕府蔵入地由布院・横灘の年貢勘定について、伊丹康勝の披見を想定して書かれた、三三一の別紙であることもわかる(三三一に「由布院・横灘之儀、喜介(伊丹康勝)殿へ可披見かと別紙ニ申侯事」とあり)。しかし、これのみでは幕府蔵入地の勘定について、幕府奉行のほかに、何故康勝が関係するのかが判然としないが、忠利書状(案)によって、忠利が奉行から勘定を催促された際に、康勝に幕府内部の事情を問い合わせ、かつ、対応策を相談したためであることがわかる。このように双方の書状を勘案することによって、書状作成や交換の様相がより詳細に浮びあがってくるほか、最上義俊・本多正純・松平忠直の改易や紫衣事件などの幕政を中心とした政情や、他家との関係、細川家内政などが、より具体的に知れる場合が多い。
ただ残念なのは、元和九年正月〜三月、寛永三年正月末〜四月、寛永四年四月末〜十一月初の間の留書がないことと、双方が近所に居て面談の機会が多い場合にはあまり書状が残されないことである。後者の場合は書状の史料的な限界であるが、前者の場合は書状交換の形跡は歴然としており、従って留書はかつて存在したと推定されることから、留書作成の事情を検討する手がかりの一つとなると考えられる。
尚、本冊巻頭には、細川忠利画像のカラー写真を掲げ、簡単な解説を付した。解説にあたっては、大倉隆三「熊本の近世初期肖像画」(『熊本史学第五五・五六合併号』)を参考にした。
従来どおり巻末には人名一覧を載せたが、新出と新たに確定できた人物を除き、前巻までに既出の人物については説明を省略し、文書番号のみを掲げるにとどめた。
(例言一頁、口絵一頁、目次二六頁、本文三五三頁、人名一覧二六頁)
担当者 加藤秀幸・荒野泰典

『東京大学史料編纂所報』第19号 p.52*-53