日本関係海外史料「オランダ商館長日記」訳文編之四(下)

本冊は『日本関係海外史料』オランダ商館長日記訳文編の第八回配本に当り、さきに『日本関係海外史料』オランダ商館長日記原文編之四として刊行された平戸オランダ商館長フランソワ・カロン(François Caron, ca.1600-1673)在職中の公務日記(自一六三九年二月四日、至一六四一年二月十三日)の後半部分、一六四〇年一月一日(寛永十六年閏十一月八日)より一六四一年二月十三目(寛永十八年正月四日)に至る十三箇月間余の記事を翻訳したもので、巻末には訳文編之四全体を通じての索引(人名・地名・事項・船名)及び日記所引文書目録竝びに平戸商館決議記事索引を収める。以下本冊に収録した部分の内容を、便宜上四つの部分に分けて順次解説する。
 一、自一六四〇年一月一日、至同年四月十六日(自寛永十六年閏十一月八日、至同十七年二月二十五日)一六四〇年の年頭より商館長フランソワ・カロンの江戸参府出発までの部分である。この部分の記事の大半は平戸における幕命による臼砲鋳造の件である。気候風土や技術蓄積状況などを異にする不利な条件のもとで、臼砲と榴弾の鋳造は困難を極めるが、二月二日に最初の四門が完成し、さらに引続き三門の鋳造がカロンの参府旅行出発後も行われる。一方、この部分の冒頭には、牧野信成のカロン宛書状(寛永十六年十一月十六日付)の受領にはじまり、カロンの主要な幕閣に宛てた書簡の内容など、幕府の要路に対するカロンの信書による積極的な政治折衝の一斑を窺わせる記事が見られる。また、この間の注目すべき記事としては、平戸商館の賄方手伝ハンス・アンドリースが日本人女性との姦通事件により松浦家の法廷で死罪を宣告され、カロン等の求解の努力も空しく一月二十四日に処刑されたことや、広南(交趾シナ)在住日本人の蘭船託送荷物の引渡しを求める上方商人平野屋新四郎と帯屋喜右衛門らの訴訟に関する問題(一月二十四日条)が挙げられる。
 上方では、寛永十六年の暮を控えて市場は深刻な不況に見舞われ、ポルトガル船の渡航禁制による輸入物資の騰貴を見込んで多量の貨物を思惑買いした商人らの倒産相つぎ、商館の常客の一人、大坂の福島新左衛門も商館に対する債務履行の困難を報じて来た(二月十四日条)。この件は、債権取立てのため上方に派遣された通詞貞方利右衛門が折衝のすえ銀二千二百貫匁の返済を得て四月三日平戸に帰著したが、不況の影響は深刻で、カロンが大坂を経て江戸に向った五月下旬には、蘭人の大坂の宿主五郎兵衛の倒産と逐電の報が平戸に伝えられている。
 前年来航した蘭船十一隻のうち最後の二船は二月四日にカストリクム号が、四月八日にはロッホ号がそれぞれ平戸を出帆してタイオワンに向った。なお、一月十一日条には、寛永十六年閏十一月十八日付長崎代官末次茂房の東インド総督アントニオ・ファン・ディーメン宛書状の全文を、二月二十七日条には、当年の将軍家献上用としてさきに大坂に送附されたカルバリン砲二門の無事到著を知らせる大坂錬炮奉行今村正信らのカロン宛請取状の全文が掲げられている。
 二、自一六四〇年四月十七日、至同年七月三十一日(自寛永十七年二月二十六日、至同年六月十三日)カロンの江戸参府日記とこれに続いて記載されている同期間中の上級商務員ヤン・ファン・エルセラックの平戸留守日記の部分である。
 当年の蘭人拝礼には、当初、次席商館員エルセラックがオランダ人の代表として参府する予定であったが、江戸では五箇所仲間の代表たちがオランダ商館の長崎移転と蘭船舶載生糸の糸割符仲間への全面的配分を要求する動きが活発化し、事態を憂慮する牧野信成が旧来の経緯に通じ、日本語に熟達した商館長カロン自身の参府を強く要望した。このため、カロンは自身の参府を決意し、四月十六日、商務員アブラハム・ルーカス、火薬掛ユリアーン・ヤンスゾーン、通詞利右衛門らを伴い平戸を出発した。信成はカロンの出府に際して家康の下附した朱印状の携行を命じたが、当時平戸商館ではこれが見当らぬため、やむなく元和三年八月十六日附秀忠朱印状を携行することとした。カロン一行は五月十二日に江戸に到著し、七月十二日まで滞在したが、この間、カロンは牧野信成と協議を重ね、オランダ人の立場を弁明し、信成の助力を乞い、信成もこれに応えてオランダ人の既得権擁護のため工作し、一応、五箇所仲間の要求を卻けることに成功した。また、献上品として持参した銅製燈架と遠眼鏡が家光のお気に召し、この二品が拝礼に先だって受理され、燈架は五月三十一日に日光廟に搬送、奉納された。
 一方、オランダ人の拝礼は、家光の新本丸移徒とこれに随伴する祝賀行事や勅使・院使の引見、家光の日光社参などの行事で遷延され、七月になっても拝礼の沙汰はなかった。結局、カロンの要望により、七月十日に酒井忠勝が家光に代って拝礼を受け、銀二百枚が下賜された。なお、オランダ人の懸案である銅輸出の解禁や蘭船出帆期日制限の撤廃などの件は今回も満足な解決を得ることが出来ず、カロンは江戸出発に当って、牧野信成の指示に従い、オランダ人の要望事項の要点をまとめた覚書を作成して主要な幕閣に宛ててこれを送附した。
 江戸における其他の事件としては、榴弾の製法を学ばせるため、牧野信成がカロンに命じて火薬掛ユリアーンを私邸に派遣せしめ、六月十五日から三日に亘って榴弾製造の実演が行われたが、同月十七日に信管装填の不手際から炸裂事故を起こし、牧野邸に少なからぬ損害を与えた。しかし信成の好意的措置により大事に到ることなく処理され、カロンらは辛くも面目を保持することを得た。
 参府日記に続いて記載されているエルセラックの留守日記は、平戸で引続き行われた臼砲と榴弾の鋳造ならびに商館の新倉庫の作事が主たる記事であるが、これに長崎・上方の動静を伝える記事が見られる。七月四日には当年度来航船の第一船たるロッホ号がタイオワンから平戸に到著し、上級商務員マクシミリアン・ル・メールが来任した。またこの便でタイオワン長官ヨハン・ファン・デル・ブルッフの死去とその後任人事としてパウルス・トラウデニウスの長官就任が報ぜられた。而して、七月九日には、長崎にマカオからポルトガル船一隻が入港した旨が伝えられる。これはマカオ市が貿易再開嘆願のため派遣した四人の使節を乗せた船であり、その悲劇的運命は次の部分に詳述される。そして七月二十七日、カロンらの一行が平戸に帰著し、日記はカロンの手に引継がれる。
三、自一六四〇年八月一日、至同年十月末日(自寛永十七年六月十四日、至同年九月十七日)七月六日に長崎に来航したマカオ市の使節はルイス・パエス・パシェコ、ロドリゴ・サンシェス・デ・パレデス、ゴンサロ・モンテイロ・デ・カルヴァーリュ、シマン・ヴァス・デ・パイヴァの四名で、彼等はマカオ市会の訴状を長崎奉行に伝達したものの、上陸後直ちに乗組員全員出島に拘禁された。八月二日、加賀爪忠澄・野々山兼綱が上使として長崎に到著すると、即日、十三名の黒人水夫を除く六十三名に死刑が宣告され、翌日処刑された。上使は西国諸大名を上ノ関・小倉・島原の三箇所に分けて招集し、異国船渡来の際の措置と沿岸防備に関する将軍家の上意を伝達させた。八月二日に国入りした松浦鎮信も八月十一日に島原に赴いた。日記は情報入手の都度、この間の経緯を詳述し、幕府年寄衆連署の長崎奉行ならびに西国諸大名宛奉書の全文を訳載するとともに、島原から帰著した鎮信がカロンに示したマカオ使節持参の一連の関係文書をも訳載している。この関係文書の原文は、訳文の内容から推して熊本大学図書館所蔵の松井家文書に見られる「天川より申上分写」と題する文書と同一のものであろう。但しカロンの訳文との間には若干の異同が見られる。なお、この部分の校訂に当って必要な松井家文書は、熊本大学の川口恭子氏の御好意により、その全文を入手することを得た。
 八月十七日に加賀爪・野々山両使節は長崎から江戸への帰途平戸に立ち寄り、オランダ商館を視察、翌日帰途についた。
 この年度のオランダ船は、前記ロッホ号の入港につづいて、八月七日に東京からエンゲル号とリズ号が入港し、この便船で上級商務員カレル・ハルツィンクが平戸に帰著した。ついで八月十日に柬埔寨からカストリクム号が、八月十九日にヴィッテン・エレファント号、同二十三日にはオッテル号、メールマン号、オーストカッペル号、ブルッコールト号の四船が相接して平戸に来著、九月九日にフラハト号と十一日にレイプ号がタイオワン経由平戸に入港、十月三日にはパーウ号と、計十一隻の来航をみた。しかし、長崎奉行所からの取引許可は一向に通告されず、糸目利派遣の沙汰もないまゝ十月の半ばを経過する有様で、商館では船舶帰帆時期との兼ね合いから、帰荷の日本銀調達のため、上方商人に多額の銀資本の借入れを提議せねばならなかった。このため平戸商人を上方に派遣して資金調達を委任し、さらにハルツィンクとアウフスティン・ミューラーを資金調達督励のため再度上方に派遣した(十月十六日条)。
 この間、カロンは九月十七日から二十二日にかけてル・メールとハルツィンクを伴って長崎に出向し、奉行馬場利重に謁して蘭船出帆期日等の件の善処を要請、さらに新任奉行柘植平右衛門正時の著任を祝すため九月二十八日から十月二日にかけて、ル・メールと共に再度長崎に赴き、両奉行と会談した。しかるに、十月三十日、大目附井上政重が西国巡検の上使として長崎に来著したため、カロンは急拠同地に赴き、政重に表敬するとともに奉行馬場利重の陪席のもと、取引開始の許可等のことを請願した。
 四、自一六四〇年十一月一日、至一六四一年二月十三日(自寛永十七年九月十八日、至寛永十八年正月二日)十一月一日カロンが長崎より平戸に帰著すると、翌日井上政重の裁下により長崎より派遣された糸目利が平戸に到著して直ちに蘭船舶載生糸の選別作業が開始され、漸く取引開始の目途がついた。しかるに、十一月八日、上使井上政重は柘植正時を従え平戸に到著した。翌九日朝、オランダ商館を視察したのち、カロンを松浦氏の屋敷に呼び出し、将軍家の上意として、商館長の一年交替制、商館倉庫の破却を命じた。理由は、オランダ人もポルトガル人同様にキリスト教徒であり、日本人との接触を通じてキリスト教が日本に伝播する危険を断つためであり、また、新倉庫の破風に刻まれたキリスト生誕紀年が家光の忌避にふれたためでもあった。
 カロンが鞠躬如として上意に遵う旨返答したことは、オランダ商館破滅の危機を未然に回避させるものであった。なお、日記には今回の上意について、これは政重のみが関与したことであり、他の幕閣の何ら関知するものではなかった、という政重の談話を記しており、鎖国政策形成期における幕府の政策決定の過程をみる上で興味ある記事といえる。
 これ以後の記述は、倉庫の取毀作業と平戸における取引に関する記事を主としてカロンの日本の退去時に及ぶ。オランダ側ではつとめて取毀しを延引せんと策し、日本側はこれを督励する。また取引に関しては、日本側は全在庫商品の即時売払いを主張し、オランダ側は欠損の生ずる場合は積戻りをも辞せずと主張して、この間の両者の駈け引が記述されるが、結局、オランダ側は日本側の主張に屈せざるを得なかった。
 井上政重は十一月十一日に平戸を去ったが、其後も長崎に滞在して平戸の動向を監視した。十二月八日、カロンは松浦鎮信と共に長崎に赴き、九日、政重に謁して自己の所感を披瀝するところがあった。十二月十四日、商館の評議会はカロンの後任としてル・メールを指名。十八日には幕府御船手の小浜嘉隆と間宮長澄が平戸に到り商館取毀の状況を検分した。十二月十九日、ハルツィンクはメールマン号に搭乗して東京に向い、この前後、諸船相ついで平戸を解纜する。一六四一年十二月三日、松浦鎮信はカロンを告別の宴に招いた。二月十日、カロンは商館長の権限をル・メールに引き継ぎ、十二日にカストリクム号に搭乗した。カロンの日記は二月十三日の条を以て了り、原本の次葉からル・メールの日記に引きつがれる。
 本冊の翻訳は加藤が行い、更に金井・加藤両名が相互に訳文の検討を行った。翻訳の過程では、一部分、非常勤職員鳥井裕美子の協力を得た。また、永積洋子訳『平戸オランダ商館の日記』第四輯(岩波書店)三一四〜四六〇頁を参照した。なお、本冊の編纂・校正は、右三名と非常勤職員武中明子・平尾優枝・東海林則子が分担した。
(例言二頁、目次三頁、本文三二九頁、索引三四頁)
担当者 加藤榮一・金井圓

『東京大学史料編纂所報』第19号 p.58*-61