大日本史料第一編之二十二

本冊には、花山天皇寛和元年(本年四月二十七日、永観三年を寛和元年と改元)正月より同年三月までの史料を収める。
 即位以来、政務に対して意欲的な姿勢を示していた花山天皇は、正月一日小朝拝を停め、二月十五目諸国の費を省くために豊楽院東西楼の造作を停止するなど、依然として政務に意欲的な姿勢を見せている。一方、御遊に関する記事も多く(正月三日第一・同月九日第一・同月十日第二・二月二日第二・同月二十四日・同月二十九日・三月十一日第二条)、その政務に対する姿勢との対照に注目される。
 円融上皇関係では、上皇の奏聞により武者所の者に弓箭を滞することが聴されており(二月十一日第一条)、蔵人所衆等を撰び上皇の殿上等に侯せしめ、京官御給を給うこと(三月十四日第二条)などの記事とともに注目される。二月十三日には、紫野に子日の御遊を行なっている。この華麗にして善美を尽した御遊の模様については、藤原実資の日記『小右記』などに詳しい。また、三月七日には東山、次で十六日には西山に花を御覧になるとともに所々に遊覧するなど、上皇は譲位後の自由な雰囲気の内に活発な行動を見せている。
 外戚でない関白藤原頼忠は、正月二日公卿等が拝礼のために頼忠第に参入しても会わず、また除目議(正月二十八日条)にも預かることなく、その地位は全く名ばかりであった。
 社会関係では、弾正少弼大江匡衡(正月六日条)・下総守藤原季孝(同月二十日第二条)等が相次いで賊のために刃傷されるという事件が起き、正月二十一日には匡衡刃傷の犯人追捕の官符が諸国に下され、次で犯人左兵衛尉藤原斉明等追捕のために検非違使が遣わされたが、四月二十二日に至り、関東に逃走しようとした藤原斉明が近江に於いて、前播磨橡惟文王により射殺されている(三月二十七日第三条)。
 宗教関係では、皇太后昌子内親王の山城大雲寺観音院供養(二月二十二日条)、天台座主良源の入滅に伴なう権僧正尋禅の天台座主補任(同月二十七日第二条)などがある。
 事蹟を集録したものは、天台座主大僧正良源(正月三日第三条)、円融上皇御乳母典侍頼子姓闕ク(三月是月第一条)、同上皇御乳母掌侍加賀源中明女(同月是月第二条)などである。良源は延喜十二年九月三日、近江浅井郡に生まれたと伝えられる。延長六年四月天台座主尊意に随って受戒し、康保三年八月二十七日天台座主に補され、天元四年八月三十日大僧正に任ぜられた。その間、天禄三年五月三日遺告を書し、永観二年冬風痺を患って弘法寺に退き、本年正月三日七十四歳を以て寂し、永延元年二月十六日慈恵の諡号を賜わった。良源は藤原忠平と結縁し、その男師輔、さらにその子伊尹・兼家等の帰依を受け延暦寺を興隆し、所造の堂塔は一山の大半に及んだと伝えられる。また、その門徒は三千人と伝えられ、上足に尋禅をはじめとして源信・覚運などがある。良源はその入滅の日に因んで元三大師と称されるが、本冊にはその事蹟の他、元三大師信仰に関わる各種の史料を類聚している。
(目次八頁、本文四二六頁、挿入図版一葉)
担当者 林幹彌・石上英一・厚谷和雄

『東京大学史料編纂所報』第18号 p.68