大日本古文書家わけ第十九「醍醐寺文書別集 満濟准后日記紙背文書之一」

家わけ醍醐寺文書は既に九冊を刊行し、なお継続中であるが、それとは別に同寺所蔵の満済准后日記の紙背文書を別集として刊行した。
同日記は自筆原本が応永十八年正月より永享七年四月まで現存し、そのうち応永二十九年十二月までを載せる国立国会図書館架蔵の十一巻は、具注暦の裏面に記されて紙背文書をもたない。この別集に収めるのは、応永三十年以後を載せる同寺所蔵三十六冊の冊子本の紙背文書である。
この分については、ほとんどの用紙が紙背をもち、総点数は二千通近くに達するものと推定される。ただし日記に利用するに際しての裁断、および配列の著しい不連続性、さらに編纂に原本を利用できなかったという事情も加わって、文書の原状を復元し得ないものが多かった。
内容的には満済自身の自筆文書と、他から彼に充てられたものに大別されるが、前者には文字の塗抹もなく、あるいは他に充てられた後、満済の許に返却された正文ではないかと想像されるものも若干存在したが、もとより確証なく、文書名はすべて土代とした。後者では満済のあと座主職をつぐ宝池院義賢の大量の書状が目立ち、恐らく特定の個人から特定の個人に充てられた中世文書としては、現存最多なものと考えられる。何れも京都法身院在住の義賢から、醍醐入寺中の満済に充てたものである。その他では地蔵院持円、実相院増詮(義運)、聖護院道意、浄土寺持弁、随心院祐厳ら、何れも将軍義教の護持僧グループのものが多く、この紙背以外に自筆文書の存在が知られていないものも少くない。
表日記との関連についていえば、意外に関係する記事が少く、この日記が個人的な音信、往来等の記事をほとんど載せない公的日記の色彩が強いことを推定させる。
なおこの別集は、古文書部が特に中世史料部(第七編)の協力を得て編纂した。
(例言二頁、目次三四頁、本文三五三頁)
担当者 笠松宏至・新田英治

『東京大学史料編纂所報』第18号 p.72