大日本古記録「建内記」九

本冊には、前冊のあとを受けて、文安四年七月より同年十一月九日までを収めた。底本は、宮内庁書陵部所蔵の伏見宮本(原本)を用いたが、八月二十五日・二十七日両条は、内閣文庫所蔵の三十七冊本(写本)の内を以って収めることとした。
本冊の記事のなかで、興福寺側が東大寺郷に課役をあてようとしたため両寺間で紛争が起こるが、このことに関して、時房は、自らの日記のなかから応永三十三年正月十九日・二十三日両条を抜粋して、幕府の許に参考として届けている(一三九−一四〇頁)。この両日条は、現在、自筆本・写本のいずれにも見出せないものであるから、建内記のなかに建内記の逸文があるという、妙な事態になっている。なお、この両条は、日記としては現存部分の最初にあたる。(応永二十一年・同二十四年・同二十六年は、方違行幸記・放生会参仕記などの別記であろうと思われる。)
注目すべき記事としては、七月十日条にみえる上杉竜忠丸(憲忠)関東管領就任に関する部分があげられよう。すなわち、従来の説によれば、漠然と文安五年十一月以前と考えられていたのであるが、その前年、つまり文安四年七月四日の綸旨によって、辞意の固い父上杉憲実に替り、その子竜忠丸が就任するようになった経緯が分り、恐らく、その後いくばくもなく幕府において決定をみたものと思われよう。
また、山城国祝園荘をめぐり、摂関家領であると主張する一条兼良側と、二条良実関白の際に施入されたものと主張する春日杜側との相論に関して、南都伝奏である時房が種々活躍している記事もある。そこには、神明和与仏陀施入の地は悔返されることがないとして、裁許がない場合は、祭礼などを抑留しても争おうとする、興福寺・春日社の強硬な態度がみられる。
なお、建内記は、次冊を以って完結する。
(例言一頁、目次一頁、本文二五五頁、図版二葉、岩波書店発行)
担当者 益田宗

『東京大学史料編纂所報』第18号 p.73*