大日本古記録「猪隈關白記」五

本冊には、先ず承元二年七月より建暦元年三月迄の記と、別記である「松尾行幸記」(建保五年)を収めた。以上は陽明文庫所蔵の古写本に拠った。
 次に具注暦断簡のうち建保五年・承久元年・貞応元年の分を収めた。
 右の具注暦断簡は、陽明文庫に「具注暦断簡」として伝えられているもの及び、「建武年中行事」・「白馬節会次第」・「踏歌節会次第」等、近衛政家によって作成された写本の用紙に紙背が利用されて伝えられたものであり、中には上下半分ずつに裁断されたものもある。これらを整理・検討した結果猪隈関白記と判明したものを、本冊と次冊に分収した、ただし、この具注暦断簡の部分は、記事が極めて簡略で、天候を記すのみの日が多い。
 承元二年より貞応元年迄の期間に、記主藤原家実は年齢三十歳から四十四歳に至る。当初は従一位、関白であり、承久三年四月に順徳天皇の譲位・仲恭天皇の践祚により関白の地位を降りる(藤原道家が新帝の摂政となる)が、この年五月に起った承久の乱を経て、七月に後堀河新帝の摂政、十二月に太政大臣となり、翌貞応元年四月に太政大臣を辞す。
 この様に、家実にとっても、又朝廷にとっても、変動が激しい困難な時期を経過するが、この日記の承久二・三年の分は伝えられていない。
 本冊に記事の存する主な事柄は、(一)承元二年八月八日、昇子内親王の立后(土御門天皇の皇后)、(二)同年九月十九日、伊勢公卿勅使発遣、(三)同年十一月廿七日、閑院皇居焼亡、(四)同年十二月廿五日、東宮守成親王元服、(五)承元三年七月以前より生じた興福寺僧徒の党争、(六)同年八月廿九日、家実の土御門新第上棟、(七)建暦元年正月廿二日、女御立子の立后(順徳天皇の中宮)、(八)同年三月九日、改元、等である。
(例言一頁、目次一頁、本文二六三頁、挿入図版一葉、岩波書店発行)
担当者 近衛通隆

『東京大学史料編纂所報』第18号 p.72**-73