大日本古記録「言経卿記」十二

本冊には、慶長八年正月より同九年六月までの一ケ年半を収めた。史料編纂所所蔵の自筆原本では、第二十八冊より第三十冊に至る三冊である。記主山科言経の六十一歳と六十二歳の日記である。
 慶長七年二月、源氏長者に補すべしとの後陽成天皇の内旨を被りながら、当年を慎として固辞した徳川家康であったが、八年二月十二日にはこれを受けた。同時に征夷大将軍の宣下があり、右大臣に転じた。宣下の儀は伏見で行なわれ、言経父子や冷泉為満は家康の衣紋を奉仕している。言経は家康の拝賀のための装束や乗輿について諮問にあずかり、伏見や二条城との間を頻繁に往来している。また下職とのこまかな打ち合せの様子も伺える。なお、大外記中原師生からこの宣旨の写しが送られ、日記の二月二十六日条に掲げられている。
家康が右大臣になったあと、内大臣の職は四月に大坂の豊臣秀頼が襲った。時に秀頼は十一歳である。そして八月、秀頼は家康の孫娘千姫と婚儀を挙げた。一方、江戸の徳川秀忠は十一月近衛大将を拝任している。
 山科家侍民部が、八年七月十九日、八条殿町衆に切りつけられるという事件がおこったが、京都所司代板倉勝重や武家伝奏広橋兼勝が仲にはいって、旬日を経ずしてこの一件は落着した。
言経はようやく念願の文庫を邸内に設けることになり、八年八月には礎石を置き工事に着手した。
 言緒は八年正月従五位上から正五位下に昇った。九年三月には冷泉為満・舟橋秀賢と共に尾張に赴いている。
 朝廷の儀式や行事に関する記事をはじめ、学芸・医薬・囲碁・将棋・能楽等各種の遊芸におよぶ記事が豊富なことは既刊の諸冊と同様である。なかで、八年八月廿日、興正寺座敷において蹴鞠の行なわれたことや銅人形の記事が目をひこうか。
 口絵には原表紙に据えられた言経の花押を掲げた。
(例言一頁、目次一頁、本文三〇四頁、挿入図版一葉、岩波書店発行)
担当者 田中健夫・田中博美

『東京大学史料編纂所報』第18号 p.73**-74