東京大学史料編纂所

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正倉院文書調査

 昭和五十六年度の正倉院文書調査は、十一月十六日より二十一日までの六日間、例年の如く正倉院事務所(奈良市雑司町)に出張し、同修理室に於て原本調査を行なった。昨年度より正集以下の既調査の巻についての調査結果の整理を始め、正倉院文書の目録を、特に接続表裏関係等に留意しつつ作成することにした。今年度は、正集の巻五・六・七・八・十・十三・十四・十五・十六・十八・二十六・二十七・二十八・二十九・三十・三十五・三十六・三十七・四十二・四十三の計二十巻分の目録原稿の原本との対校を行なった。
  ○東大寺開田図の調査(四)
 昭和五十三年度より五十五年度に行なった東南院文書中の八世紀の絵図の調査の結果は既に所報一四・一五・一六号の採訪調査報告において紹介してきたが、その最後として「摂津国島上郡水無瀬荘絵図」(第三櫃第三十三巻)の残された問題について記しておきたい。
〔摂津国島上郡水無瀬荘絵図〕
1、寸法
 図4(所報一四号、一一三頁)に記入した寸法のうち、地辺・a交点の2.6�を3.6�に改め、更に、天辺の寸法を、a3.35�、b(8.2)�(天辺の欠損により推定)、c13.1�、d18.1�、e23.1�、f28.0�、g32.95�、h37.9�、i42.5�、左端45.8�とし、また左辺の寸法を、A4.6�、B9.6�、C14.5�、D19.4�、E24.25�、下端28.1�とする。
2、料紙
�〓紙
 外題はうちつけ書きに「水成瀬繪〓」と墨書され、右肩に墨合点が付されている。
 図6の如く、現在の〓紙は、表に外題の書かれている古い料紙の見返しの面(裏)の全面に裏打ちを施している。所報一五号で「〓紙と見返しは貼り合せてあり」(一六一頁)と記したのは不正確であった。水無瀬荘絵図の第一紙・第二紙の前にはもう一つ別の絵図(「山崎」の絵図)が取り付けられていたから、現存する古い〓紙料紙が絵図作成時に第一紙に接続していたことはありえない。既に指摘したように古い〓紙料紙の紙質は第一紙・第二紙とは異なる。また外題は八世紀の筆ではない。したがって、古い〓紙料紙も絵図作成時のものとは考え難い。水無瀬荘絵図が前に貼られていたもう一つの「山崎」の絵図から分離したのは大治五年(一一三〇)の東大寺諸荘文書并絵図等目録以前であろうから、古い〓紙料紙の取り付けの時期も大治五年以前と考えられる。また、古い〓紙料紙の地辺部分は、外面(表)の左端で約2�、右端で約5�の巾で欠損していて、裏打ち料紙の上に別の紙片を貼って補っているから、現在の裏打ち紙が施されたのは古い〓紙の取り付け時ではなく、後の補修の際であろう。図6に示したような古い〓紙料紙と、裏打ち料紙とが左端・右端でずれて貼り合されているのも、現在の裏打ちが後の補修の際に施されたものであることを示していよう。
 〓紙の寸法は、外面で、天辺19�(第一紙との継目4�は入れない)、地辺18.3�(同じく3.5�は入れない)、左辺28.9�、右辺28.6�である。〓紙竹の直径は3.5�である。
 古い〓紙料紙は、右辺より四分の一位のところに中から下にかけて三か所の糊汚れがあり、上方には糊汚れに墨の横界線がうつっているところがある。
�第一紙
 全面に裏打ちが施されている。右辺DE間の欠損部は裏打ちに先立って紙で埋められている。
 天辺の右から約10�の間は巾約1.5�の筋目があり、左の2.5�(bc間の右半分の位置)は欠落している。これは、恐らく改装時の天地の調整(切り揃え)の際に生じたものであろう。

img(87_a)

�第三紙は素木の直径1.5�の軸(合せ軸ではないらしい)に取り付いている。第三紙の本紙の左端は軸付け用に天・地共に斜めに切られ台形上に整形されていたことが、軸に取りついている部分の第三紙の裏付ちの下にかくれた本紙からしられる。したがって裏打ちが施される以前にも第三紙の左端は現存の軸、または別の何らかの軸に取り付いていたことが知られる。
3、別文字の異同
�郡司署判と摂津職判とは別筆である。
�郡司署判は主帳物部首子老の筆であろう。絵図中の書入れは「東」以外は細字なので子老の筆かどうか判定できない。郡司署判の二行目の「主」字は「擬」字の五画目までを書いてそれを擦り消して書かれており、写真からも不自然さがわかる。
�職判の「智努」・「牛養」は自署である。
�第三紙の造東大寺司署判について『東南院文書』釈文は五名の署名を全て自署と判定している。平栄の署名は他の文書絵図にある自署と同じとみてよく、この判定を覆えす積極的論拠はない。しかし、この署判がどのような絵図・文書の一部であったのかが、「検遷使」の理解を含めて問題である。第三紙右端には現在でも(右辺は第二紙との継ぎ直しの際にほんの少し切られている可能性がある)約3�の余白があり、位署の間隔は2〜2.5�であるから、本来、文書の本文が前に貼られていたとすれば、その文末とは一行以上の空行を挟んで続いていたことになり不自然である。署判全体が当時の模写である可能性や、署判の前には文書以外のもの(例えば絵図)が継がれていた可能性も含めて検討が必要である。
4、彩色・界線
�川は墨で両岸の線を引いた後に、間を薄青色(白縁または白群)で彩色している。山丘は墨で稜線と樹木を書いた後に、薄緑色(白緑)で彩色している。
�中央の畠と西・南の水田や東南の「里」との境の線、水田と南の山丘との間の「家」との境の線(西端はD・E間のDより4�のところで止められている)は太く、地物の描線とタッチが類似している。
�縦界線は、a・b・d・hが地辺に届かず、iが天辺に届かず、横界線は、A・B・C・Eが右辺に届かないが(bの上端は天辺の欠損部分に、Dの右端は右辺の欠損部分にあたり不明)、他は全て端に達している。b・cとAは一部に引き直しがあるが、同時の筆である。
�界線は、地物描写より先に引かれたものであることを改めて確認した。
�彩色部分中の「水无川」・「畠」・「倉」・「屋」の文字は全て彩色の後に書かれている。
5、作図の手順
�一阡佰線、二地物描線・地類界線、三彩色、四文字、の順に絵図は描かれた。
�第一紙に絵図が描かれた後に第二紙と貼り継がれ、郡司署判が加えられ、摂津職判・摂津国印が加えられた。
                  (土田直鎭・皆川完一・石上英一・加藤友康)


『東京大学史料編纂所報』第17号p.86