大日本史料第十二編之四十九

本冊には、元和八(一六二二)年十月一日より十一月二十八日までの約二箇月間の史料を収めた。
 この期間のうちで最も重要な事件は、十月一日条収載の幕府年寄下野宇都宮城主本多正純の配流である。先に八月二十一日条に収めた出羽山形城主最上義俊の改易と並んで本年最大の政治的事件であるが、この時正純は、義俊の城地接収の上使として山形にあり、同地において自身の配流の上使を受け、直ちに配地出羽由利に向うことになったのである。周知の如く、正純は父正信と共に家康の没後も秀忠のもとで幕府年寄の地位を占めた最重要人物なのであるが、その配流の直接の理由として伝えられるところは一様ではない。本条には、この事件に関して種々の巷説が行なわれたことを合叙し、また伝記史料も多くを採録した。配流の最大の理由として世に伝えられる本年四月の宇都宮城における将軍暗殺未遂事件なるものについては、四月二十日条を参看されたい。
 このほか、十月初旬には、賜暇の遅延していた諸大名のうち、伊達政宗・佐竹義宣・上杉景勝の東北三大名にその沙汰があり、相前後して帰国の途についている(同月五日・八日条)。また十月是月・十一月十八日条には、合わせて六家の転封の記事がある。十一月十日には、秀忠が、江戸城西丸から新造竣った同城本丸殿舎に徙っている。なお十一月三日条の、幕府小性組を六組とし、番頭・組頭を定めた件は、「元和年録」の他に所見がなく、姑く同書に拠ったが、この体制の成立は元和五年にまで遡る可能性があり、割註によってそれを示唆することにした。
 次に寺社関係では、松尾社正祢宜東相景らが同社社務南相朝を、社領貪恣・神事断絶の故を以て所司代板倉重宗に訴え、重宗がこれを裁許し、社領の検地を行ない配当を定めたという事件がある。相景らの出訴は元和七年三月であったが、今回、裁許までの全過程の史料をまとめて収録した。
 死没の条としては、成田泰之・片山宗哲・坂部広勝がある。泰之は下野烏山城主であったが嗣なく断絶、幕府医師の宗哲は、元和二年、家康の勘気を蒙り信濃高島に流されていたが、同四年、秀忠により赦免されており、江戸において死去したのである。
 本冊の補遺は、「自得公済美録」「細川家史料」「部分御旧記」を中心に、元和七年六月から八年九月までの二十六条を補い(うち二条は綱文を改訂)、また新たに七条を追加した。中でも「自得公済美録」により、安芸広島城主浅野長晟の関わった江戸城本丸天主台石塁の築造等に関する史料を多く採録したのが特徴である。
(目次六頁、本文三六二頁、補遺目次五頁、補遺本文一五三頁、欧文目次一頁、欧文本文六頁)
担当者 高木昭作・黒田日出男・藤田覺・宮崎勝美
欧文担当者 金井圓・加藤榮一・五野井隆史

『東京大学史料編纂所報』第17号 p.42*