大日本史料第五編之二十六

本冊には、後深草天皇の宝治2年(1248)正月20日から同年9月末の条までを収める。
 京都の公家にあっては、後深草天皇御父後嵯峨上皇の院政、鎌倉の幕府側では、北条時頼の執権がつづき、紙数の上でとくに多くを占める事件はないが、以下おもな項目をひろってみよう。
 前年の10月9日、後嵯峨上皇を御父、中宮藤原歟子を御母として生誕した綜子内親王の御百日の儀が正月20日に行なわれ、3月23日には安嘉門院御猶子の儀が挙行されている。正月23日の県召除目に合叙した県召除目御修法は、比較的詳細で道場の指図もあり好資料である。
 後嵯峨上皇は、2月3日石清水八幡宮、10日賀茂・北野両社、3月4日には日吉杜、8月5日稲荷・祇園両社と諸社に御幸し、また長講堂法華御八講(3月13日条)、法勝寺法華御八講(7月3日条)に臨んでいる。後鳥羽上皇以後途絶えていた院最勝講も5月2日から始められ、修理造畢した鳥羽殿に8月29日、9月12日と御幸が行なわれ、さらに明春に熊野御幸を企てるなど、朝儀の興行につとめている様子がうかがえる。
 幕府に目を転ずれば、正月25日には西国の名主・荘官の京都大番役の事を定め、4月29日には鎌倉中の商人の式数を定めている。5月15日の盗人の賠償及び処刑のこと、主従対論を不裁とすること(7月29日条併参)、5月16日の兄弟の相論には父母を証人となすを禁ずることなどの幕府評定をはじめとし、5月20日の雑人訴訟の論人召喚法改正、謀叛人出挙処理、7月10日の後妻や遺子の質地弁償法、夫没後に妻が養子を迎うるを禁じたことなども見逃せない。執権北条時頼は、正月22日から2月12日まで邸内で祈祷を行ない、明年が義経や泰衡一門滅後60年にあたり、また時頼27歳の慎のために相模永福寺三堂の修理を企て(2月5日条)、3月8日には信濃諏訪社に願書を上るなどしている。5月28日は宝寿のちの時利(時輔)が生れている。
 4月17日には皇大神宮仮殿遷宮、7月10日には豊受大神宮仮殿遷宮が行なわれている。
延暦寺青蓮院・梨本両門徒の確執は、8月17日と9月6日に、高野山奥院僧徒と東寺長者行遍との抗争は5月2日に収めた。
 亡くなった人には、東南院僧正道快(2月12日)・大僧都道喜(2月25日)・藤原公雅(3月20日)・藤原頼氏(4月5日)・安達景盛すなわち入道覚智(5月18日)・源顕平(5月24日)・安倍家氏(7月24日)・藤原高実(8月1日)・園城寺探題法印隆有(9月14日)・智明すなわち園田成家(9月16日)などがあり、正月20日条には源俊定の出家、2月16日条には石清水別当法印教清の六波羅押送を収めそれぞれ伝記史料を付けている。
 挿入図版は知恩院所蔵の『法然上人行状絵図』から、智明念仏往生の図を用いた。
(目次25頁、本文444頁、挿入図版1葉)
担当者 辻彦三郎・黒川高明・田中博美

『東京大学史料編纂所報』第17号 p.39**-40