大日本史料第二編之二十一

本冊には、後一条天皇万寿元年(一〇二四)十二月から、同二年七月までの史料が収めてある。
 この間の主な事柄としては、まず北野社行幸(元年十二月二十六日の条、三〇頁以下)と皇后藤原〓子(藤原済時女、小一条院敦明母)の崩御があげられる(二年三月二十五日の第二条、一六六頁以下)。これより先、〓子は既に出家、剃髪していたが、二年三月十三日に至り、御悩により藤原通任の近衛御門(陽明門)家に行啓し(同日の第一条、一四九頁)、同家で崩じた。遺骸は四月四日に雲林院西院に移され(同日の第二条、一八八頁以下)、十四日には同院の西北に埋葬された(同日の第二条、二〇六頁以下)。ついで二十六日には遺令を奏し、また廃朝・固関・警固の儀があり(同日の条、二一八頁以下)、五月十四日には、三条院において七々日法会が行なわれた(同日の条、二三七頁以下)。
 次に入道前太政大臣藤原道長の行動についてみると、主として仏事関係にその特色がある。すなわち、彼は二年正月、法成寺において修正を行ない(四日の条、七日の第二条、七三頁、七六頁以下)、十日には皇太后藤原妍子や禎子内親王がこれに臨席している。また二月二十日には、法性寺において修二月会を行ない(同日の条、一二六頁)、更に五月には、霊牛を見るため、関白左大臣藤原頼通等を伴って、近江関寺に参詣している(十六日の第二条、二四〇頁以下)。この時の模様については、菅原師長の記した『関寺縁起』に詳しい。
 次に頼通についてみると、源憲定二女(対の君)との間に、一男藤原通房が誕生している(二年正月十日の条、七八頁以下)。
 その他、国司の文芸活動を示すものとしては、阿波守藤原義忠が任国において催した十番歌合が知られる(同年五月五日の条、二二五頁以下)。
 万寿二年は、東国や北陸道に疫癘があって死亡するものが多く(三月二十五日の第一条、一六五頁以下)、また京都では赤斑瘡が流行して、公卿をはじめ多数の人々が罹病し、凶年とさえいわれた(七月二十二日の第一条、三四四頁以下)。
 本冊において、その事蹟を集録した者は、入道前左大史小槻奉親(元年十二月二十六日の条に合叙、三五頁以下)・上総介藤原為章為度(二年二月二十五日の条に合叙、一三〇頁以下)・若狭守藤原遠理(同上、一三二頁以下)・淡路守源信成(同上、一三五頁)・皇后藤原〓子(前掲)・興福寺別当大僧都林懐(四月四日の第三条、一九〇頁以下)・菅原師長(五月十六日の第二条に合叙、二六五頁以下)・大仏師法眼康尚(同上、二六七頁以下)・小一条院女御藤原寛子(道長女、七月九日の第二条、三一一頁以下)などである。
(目次一四頁、本文三五三頁)
担当者 渡辺直彦・加藤友康

『東京大学史料編纂所報』第17号 p.38*-39