大日本史料第一編之二十一

本冊は円融天皇永観二年(九八四)三月より同年八月まで及び花山天皇同年八月より同年雑載までの史料を収める。
 安和二年(九六九)八月十三日に兄冷泉天皇の譲位により受禅した円融天皇は、十六年間の治世の後、永観二年八月二十七日に冷泉上皇皇子の皇太子師貞親王(花山天皇)に譲位した。花山天皇は円融天皇の受禅の日に二歳で立太子しており当時十五歳であった。また花山天皇の受禅と同日に円融上皇皇子懐仁親王(後、一条天皇)が五歳で立太子した。懐仁親王の母は右大臣藤原兼家女詮子である。天元五年(九八二)十一月に焼亡した内裏は、永観元年八月に立柱上棟が行なわれたが(前冊)、同二年八月九日に造宮叙位、同月十三日に造宮仁王会が行なわれ、大部分が再建されたことが知られる。花山天皇は堀河院にて受禅の後、新造内裏に遷幸し、皇太子懐仁親王も兼家・詮子の東三条第で立坊の後、入内した。円融上皇は朱雀院を後院に定められたが、依然として譲位前からの御所堀河院に留まっている。
 花山天皇は、十月十日大極殿に於て即位儀を、同月十七日万機旬を行なった。そして、同月十四日五節舞姫の過差を禁じ、十一月十三日諸所饗禄を禁じ、同月二十八日破銭法を定め格後の荘園を停め、十二月五日諸国大帳の不課及び半輪の除くべきを勘出して調庸を備進させ、同月二十八日水旱に依り封事を上らせるなど、政務への意欲的な姿勢を示している。しかし、太政大臣藤原頼忠は八月二十七日に譲位宣命により元の如く関白とされたにもかかわらず、公事に従わず、即位儀直前の十月七日に至りようやく参内する有様であった。後宮には大納言藤原為光女〓子(十月二十八日入内、十一月七日女御)・大納言藤原朝光女姫子(十二月五日入内、同月二十五目女御)・頼忠女諟子(十二月十五日入内、同月二十五日女御)が入っている。
 五月から七月には霖雨があり米直騰躍を招いている。また、東国追捕使入京(四月二十八日条)、非職帯仗の者の罪の改正(五月二十六日条)、賊の禁中闖入と追捕(八月十八日条、同月二十二日条)、検非違使播磨貞理の雑人の紺衣破卻(十一月十七日条)、河内国司の楠葉牧司への濫行(十一月二十四日条)等の治安関係の記事も見える。更に、三月十五日には兼家の東三条第が、十一月十八日には侍従厨が災に遇っている。
 宗教関係では、円融上皇の御願に依る筑前安楽寺常行堂・宝塔院の建立、天台座主良源の延暦寺西塔宝幢院の改造、四品昭平親王の出家(以上是歳条)、伊予三島社の生贄の停止、寛朝の別当補任に伴なう東大寺永観二年分付帳の作成(以上雑載)の記事がある。
 学芸では十一月二十八日の針博士丹波康頼の『医心方』撰進と、十一月是月条の源為憲の尊子内親王への『三宝絵』撰進が重要である。『医心方』(三十巻)については諸本とその伝来に関する史料を集成した。『医心方』の諸本としては、仁和寺本(五巻五冊が現存。国宝)・成簣堂文庫本(巻二十二。重文)・万延元年医学館校刻本(版木の若干は東京大学総合図書館に伝存)等が著名であるが、その写本系統は大別して二つに分れる。一つは仁和寺本である。仁和寺に伝わった『医心方』や丹波氏の奥書のある諸医書は、十六世紀末に丹波重長の嫡子でありながら和気尚成の養嗣と為った和気明重の子である心蓮院奝恰を介して仁和寺の所蔵に帰したものであるらしい。寛政二年(一七九〇)に多紀元悳が幕府医官の力をもって仁和寺から借り出した時は、整理の結果十六巻十六冊あった(他に本草書残簡一冊)。元悳はこの十六冊を写し、更に多紀家所蔵の零本(巻二・四・二十二)の写本を加えて十九冊に編成し(本草書残簡を加えて二十冊)、幕府に納めた。これが内閣文庫所蔵の紅葉山文庫本である、それの副本の多紀元悳本(聿修党本、医学館本とも称される)は多数の写本が作られ流布した。仁和寺本は次の半井家本に比し本文が少なく、宇治本に近い。
 いま一つは半井家本である。半井家本は未だ公開されていないが、同本を底本として行なわれた安政元年(一八五四)からの医学館の書写校正模刻事業の記録が森立之により『医心方提要』(故石原明氏所蔵)としてまとめられている。石原氏の御好意により『医心方出世原因之手簡』と共に、その大部分を翻刻させていただいた(但し、朱墨、前後筆の別は表記しなかった)。半井家本は、朝廷所蔵の御本に、天養二年(一一四五)に仁和寺本と同系の宇治本(藤原忠実所持本)から移点した二十五巻に、保安・大治頃(一一ニ〇年代)の文書(その点数は数十に及ぶらしい)や長承二年(一一三三)の具注暦の裏を利用した巻二十五・二十九の二巻、鎌倉期の補写の巻四、江戸初期の書写になる巻二十二(御本巻二十二の分離のための補巻)・二十五未・二十八(冊子)の三巻を取り合せた写本である。半井家本中の御本から江戸初期に分離したのが成簣堂文庫本巻二十二である。半井家本の中核の御本は、宇治本・仁和寺本より増補が多い。半井家本は正親町天皇より下賜されたものと伝承があるが、既に鎌倉期から和気氏に所蔵されていた可能性もある。半井家には他に、延慶二年の書写の十六冊十二巻半(延慶本)に江戸中期に欠巻分を補って三十六冊三十巻とした別本が所蔵されていたが、安政二年の地震の際に江戸の半井家屋敷で焼失してしまった。その書誌は『医心方提要』や杏雨書屋所蔵の『医心方筆記』により窺われる。
 事蹟としては、相撲人真髪成村・海恒世(七月二十九日条)・丹波康頼(『医心方』撰進条に合叙)・備中守藤原棟利(是歳第四条)・四天寺別当権律師乗恵(同第五条)を収めた。
 なお、次の箇所の傍注・標出等を訂正する。

『東京大学史料編纂所報』第17号 p.37-38