大日本近世史料「細川家史料」八

本冊には細川忠興文書とそれに続く細川忠利文書を収めた。忠興文書は、寛永九年から正保二年までの光尚宛書状八八通(内年未詳分五通)と、慶長五年から寛永十七年までの諸方宛書状三六通(内年未詳分七通)である。永青文庫所蔵の忠興文書は以上で一応の完結とし、細川忠利文書に移った。忠利文書も、忠興文書同様、忠興宛・光尚宛・諸方宛の順に刊行する予定である。永青文庫には忠利書状の原本で現存するものは、少ない。そのかわり書状の起草にかかわると推定される案文の留書が残されている、この留書は原本に準じ、かつ、書状起草にあたっての削除訂正などの推稿の跡をたどることができることから、忠利書状案として採用し、できるだけ原形を生かしながら翻刻することとした。本冊に収録した留書の書名および整理番号は、つぎのとおりである。
『忠興様へ之御状之留』元和六年(整理番号四−二−一〇一)
『忠興様へ之御書之案文』元和六年・同七年(整理番号四−二−一〇二)
『宗立様御書案文』元和七年十一月−同八年十二月(整理番号四−二−一二六)
右の案文を収録するにあたっては、かならずしも留書の記載順によらず、年月日の順に排列し、各冊ごとの整理番号は省略した。
忠興の光尚宛書状には、江戸の光尚からの音信に答え、自分や忠利の動静を報じるものが多いが、政治情勢への関心は相変らず旺盛である。寛永十八年三月十四日の忠利の危篤を報じた書状は、忠利の死の三日前であり、その悲痛な調子は忠興の心中を偲ばせる。図版に採用した同十三年四月十四日の書状は、本文は右筆で、署名・花押は忠興自筆であり、かつ、追記に自筆で「其方へ逢申候と存、書判此比ノ初ニ仕候、已上」とあって、愛孫への書状の自筆書判にこめた意図が窺える興味深いものである。
諸方宛書状は、数は多くないが、内容は多岐に亙る。元和六年閏十二月廿五日の娘の万(鳥丸光賢室)宛の書状では、忠興は、剃髪した顔が父幽斎に酷似しているのに驚き、自から歌道を知らぬ幽斎と評してうちとけたところをみせている。また、忠利に預けられたもと徳川忠直附の稲葉正利宛の書状では、相変らず用心深いところをみせている。
忠興宛忠利書状は、既刊の忠興書状に対応するものが多いので、より具体的に事情が判明する。書状の宛先は、長舟十右衛門や魚住伝左衛門など、その時々に忠興に近仕していた者宛になっているが、実質的には忠興宛である。
従来どおり巻末には人名一覧を載せたが、新出と新たに確定できた人物を除き、前巻までに既出の人物については説明を省略し、文書番号のみを掲げるにとどめた。
(例言二頁、目次一八頁、本文二二五頁、人名一覧二二頁)
担当者 村井盆男・加藤秀幸・荒野泰典

『東京大学史料編纂所報』第17号 p.42**-43