日本関係海外史料「オランダ商館長日記」原文編之四

本冊は、オランダ商館長日記原文編の四冊目に当り、既刊の三冊に続いて、原文編之四(自寛永十六年正月、至寛永十八年正月 Original Text Selection I. Volume IV Februarius 4, 1639-Februarius 13, 1641)として、商館長フランソワ・カロン François Caron, 1600ca-1673)の一六三九年二月四日より一六四一年二月十三日に至る、彼の商館長就任から離任に至るまでの、二年間に亙る公務日記の翻刻である。なおこれには、商館長の江戸参府中(一六三九年三月二十五日〜七月十三日及び一六四〇年四月十八日〜七月二十七日)と長崎出向中(一六三九年八月三十日〜九月五日)における平戸での出来事を記録した次席商館員ヤン・ファン・エルセラック(Jan van Elseracq)の留守日記を含んでいる。また、附録として、カロンの前任者、ニコラス・クーケバッケル(Nicolaes Couckebacker)が離任に当ってカロンに与えた「日本に於ける会社の現状竝びに諸問題に関する覚書」(一六三九年二月十一日作成)を収録してある。
 本冊では、島原の乱後、一六三九年八月のポルトガル船の渡航禁止令の発布、一六四〇年七月に貿易再開歎願のため来航したマカオ使節の処刑、同年十一月、大目付井上政重の平戸下向に依るオランダ商館倉庫の破却の上意伝達とその執行、という三大事件を中心に、所謂鎖国政策完成期における日本国内の情勢と、その間にオランダ船により齎らされた海外の動向を扱っている。
 島原の乱の結果、幕府首脳部は、カトリック教徒を日本国内および周辺から一掃することと、火砲の装備を充実させて常備軍の軍事力強化をはかるべきことを痛感し、このため、マニラ征討、ポルトガル人の日本渡航禁止、ヨーロッパの技術導入による臼砲の鋳造計画などを検討するが、マニラ征討と臼砲鋳造計画にはオランダ人の「奉仕」を必要とし、またポルトガル人の渡航を全面的に禁止した場合には、海外からの必需物資の供給をオランダ船に依存せねばならぬこととなる。従って、幕府首脳部は、その対外政策の決定に当って、しきりとオランダ人の見解を徴して、彼等の「忠誠心」を糺し、かつその貿易能力を吟味するのである。カロンの商館長在任期間は、あたかも、こうした幕府の対外政策が策定される時期に当り、彼の任務の大半は、日本側当局者との交渉に当って、日本の社会的慣行を踏まえ、彼の利用し得る人脈関係を最大限に活用して、幕府の政策決定の過程にオランダ人の意向を如何にして反映させるかにあった。従って、本冊の記述も、このためにカロンが行なった幕閣や長崎の執政官たち、平戸の領主とその奉行衆との間での政治的折衝や音信の往復、情報蒐集活動などが中心をなしている。これらの記述を通して、我々は鎖国政策完成期における幕府の対外政策の展開過程と、その最終的決定に至るまでの機微と紆余曲折を窺うことが出来る。とりわけ、ポルトガル人の追放をめぐって幕閣首脳が最後まで逡巡していたことや、平戸商館倉庫の破却が将軍家光の専断により、幕閣達を出し抜いて行なわれたことなどを示唆する記述は、日本側史料からは窺うことの出来ぬ興味ある記述である。
 本冊の翻刻に用いた諸写本は、いずれもオランダ国立ハーグ中央文書館(Het Algemeen Rijksarchief, Den Haag)所蔵の原写本のマイクロフイルム複本である。本文の底本は、
Dagregister d' Ao. 1639, 1640 & 1641 (NFJ, No. 55; KA. 11686.) (本所マイクロフイルム六九九八−一−三−一〇、同焼付本七五九八−一−一三)、これをA本とする。標題紙一葉、本文七四葉、一六三九年二月三日の記載に始まり一六四一年二月十三日の記載に至る。
 日本商館に控えとして保存されていた同時代の副本で、カロンの商館長在任中の全期間の記事を網羅した写本としては現存唯一のもの。
 右のA本に対して二種三部の抄本があり、夫々B本、B'本、C本とし、底本との校合に用いた。
Copie Daghregister, 't zedert 3en. Februarij Ao. 1639 tot dato 25en. October daeraenvolgende van'tgeene alhier op't Comptr. Firando voorgevallen ende gepasseert is. No. 3. (Overgekomen brieven en papieren uit Indië, jare 1640-2, BBB-2. VOC. 1131; KA. 1040) (本所マイクロフイルム六九九八−五−五−五、同焼付本七五九八−六〇−二六b)B本。表題紙一葉、本文八〇葉。
Copie dachregister 't zedert 3e. Februarij tot dato 25e. October Ao. 1639 van'tgheene alhier op 't Comptoir Firando voorgevallen ende gepasseert is. No. 48. (Overgekomen brieven en papieren uit Indië, jare 1641-1, CCC-1. VOC. 1133; KA. 1042.)(本所マイクロフイルム六九九八−五−五−二八、同焼付本七五九八−六〇−三二a)B'本。表題紙一葉、本文三二葉。
Copie Dachregister wegen 't geene alhier 't zedert 3en. Februarij tot dato 19en. November Ao. 1640 voorgevallen ende gepasseert is. No. 3. (Overgekomen brieven uit Indië, jare 1642-3, DDD-3. VOC. 1136; KA. 1045.)
(本所マイクロフィルム六九九八−五−六−四、同焼付本七五九八−六〇−三四d)C本。表題紙一葉、本文六二葉。
 以上の抄本のうち、B本は一六三九年十月二十六日附カロンの東インド総督ファン・ディーメン宛報告書の附属文書の一つとして、A本の一六三九年二月三日条より同年十月二十五日条までを謄写し、バタフィア政庁に送附されたものである。但し、本文中に記載された平戸からバタフィア政庁に送附した文書や、平戸商館がバタフィア及び其他の商館から受領した文書の写しや抄録は省略されている。この点はB'本、C本も同様である。其他はA本との間に校訂上問題とすべき異同は見られない。B'本はB本の忠実な謄本で、何らかの事情で、一六四〇年の便船で前記の報告書や其他の附属文書と共に再度、副本を作成してバタフィアに送附されたものである。
 C本は、一六四〇年十一月二十日附、カロンの同総督宛報告書の附属文書の一つとして謄写・送附されたもので、一六四〇年二月三日より十一月十九日までの記載を収録したもので、最後の十一月十九日条の末尾に記載されている同年の長崎来航シナ船の積荷目録を省略した他は、A本との間に重大な異同は見られない。なお、B本とC本の間の記載と、C本以後の記載についても、同様の副本が作成されてバタフィアに送附されたものと推測されるが、恐らくバタフィアから本国に転送される過程で失われたのであろう、『到著文書集』(Overgekomen brieven en papieren uit Indië)の中には残されていない。
附録に収録したクーケバッケルの覚書の底本は、
Memorie over des Compes. affairen in Japan op 't vertreck van den president Couckebacker in handen van den president Franchois Caron gelaten, mitsgaders transpoort bij voornoemde Couckebacker op 11en. Febr. 1639 gedaen. No. 1. (Overgekomen brieven en papieren uit Indië, jare 1640-2, BBB-2. VOC. 1131; KA.1040.) (本所マイクロフイルム六九九八−五−五−二六、同焼付本七五九八−六〇−二八)D本。標題紙一葉、本文六葉である。
 この文書は、クーケバッケルが本国に帰著して、一六四〇年七月二十五日に東インド会社本社のアムステルダム重役会に提出した四通の文書の第一号文書で、カロンに渡された原本の副本である。原本は伝存しない。
 本冊の翻刻に当っては、本文の校訂に関してはハーグ中央文書館のM・E・ファン・オプスタル博士(Dr. M. E. van Opstall)の協力を、附録の翻刻に際しては永積洋子女史の助言を得たことを記して感謝の意を表する。なお、本冊全体の校訂と原稿作成を加藤が、巻頭の解説を金井が分担し、原稿作成と校正には非常勤職員鳥井裕美子も分担した。
(例言八頁、目次一頁、図版二頁、本文三五二頁、索引一六頁)
担当者 加藤榮一・金井圓

『東京大学史料編纂所報』第17号 p.46**-48